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お金の学校

「浜名湖うなぎ」ブランドが消える日

うなぎはどんなに高くても食べる?  先日近くの鰻店「池作」店頭の貼り紙「値上げのお知らせ」を見て、「ああそうか」という深い感動を覚えた。シラスウナギ不漁の影響で、6月からうな丼もうな重も2百円値上がりする。年に数回、この店を利用するのは近くにある他店よりも値段が安いからだ。この店が6月に値上げすると、うな丼2200円、上3000円、特上3700円、うな重3000円、特上3700円。  10月から消費税8%が10%に上げられるから、便乗値上げがなければ2%分の物価上昇だ。うなぎ価格の2百円アップは、6%から10%もの値上げになる。だから、いまのうちに一度食べておこうという気持ちにさせられた。  すぐ近くにある老舗鰻店がこの近辺では値段が一番高い。「ブランドうな重7千円、国産うな重4500円」。この値段だから、わたしはこの店に一度も入ったことがないが、多くの客でにぎわっている。駒形通りにある刺身、天ぷらなども提供する鰻店は「うな丼2300円、うな重3300円、特うな重4000円、棚うな重(2串)5100円」。ちょうど中間くらいの値段で、こちらも決して安くはないが、客入りはまずまずだ。  20年前浅草の老舗高級鰻店で、うな重特2200円~2300円、お安い店では1500円~1700円で食べることができた。浜松の老舗で棚うな重(2串)が2900円だった。デフレが定着した平成時代、すべての商品が安くなった。ところが、うなぎだけは別格である。うなぎは約70%も値上がりしたことになる。うなぎと同じように物価が値上がりすれば、インフレターゲット2%を大幅に超えるから、日本のデフレ脱却も可能だ。もしかしたら、うなぎは日銀政策に大きなヒントを与えるかもしれない。  鰻店の客入りが悪くてつぶれたという話を聞かないから、どんなに高くなっても日本人はうなぎを食べたいのだろう。 シラスウナギの謎は解明できない  20年前に浜名湖うなぎを取材したとき、養鰻業組合の代表が「日本人は年間に1人当たり5匹のウナギを食べている」と教えてくれた。いまも変わりないだろう。  これまでに 吾(われ)に食われし鰻らは仏となりて かがよふらむか  歌人の斎藤茂吉は鰻が好きで好きで仕方がなかった。この歌について「これまでずいぶん鰻を食べた。自分は必ずしも高級上品を要求しない。鰻であればどんなものでもよかった。自分の食べた鰻のことごとくが成仏して天国で輝いている」と説明。茂吉の日記を調べると、年5匹どころではなく、年50回以上も鰻を食べていた。「鰻のおかげで仕事がはかどった」と書いているから、茂吉の業績を鰻が支えたのだろう。そんな茂吉のように1週間に一度、鰻を食べるうなぎ好きも結構多い。  ウナギは初夏に外洋で誕生し、約半年間掛けて体長5、6センチに成長、シラスウナギと呼ばれる稚魚に育つ(タイトル写真が”白いダイヤ”と呼ばれるシラスウナギ)。冬になると、シラスウナギは浜名湖、天竜川、大井川などの沿岸にたどりつく。シラスウナギを網で捕るのだが、「池作」の貼り紙にあったように不漁が続いている。特に今シーズンは大不漁で値段が上がり、その影響で養鰻業者は高い値段でシラスウナギを買わざるを得ないのだろう。  いまから約120年前、浜名湖で養鰻業は始まった。近くでシラスウナギがたくさん捕れたことも理由の1つだった。静岡県水産試験場浜名湖分場が戦前の1934年、ウナギ研究を最大テーマに設立された。シラスウナギの好漁、不漁に左右されることから、浜名湖分場では人工ふ化研究を62年にスタートした。  30年以上を経て、96年浜名湖分場で2万匹以上、大量の人工ふ化成功のニュースが流れた。しかし、ふ化した幼生はすぐに全滅した。浜名湖分場だけでなく、国の研究機関や大学など日本中でこぞってウナギ完全養殖を目指して、大量の人工ふ化技術を競った。しかし、幼生からシラスウナギに成長させることがいまもできない。結局、明治の昔と同じで天然のシラスウナギが頼りで、ことしのような大不漁が続くと、シラスウナギ価格は上がり、うな丼、うな重に大きな影響を与える。  京都市東山区に全国で唯一、ウナギ(水蛇=みずち)を信仰する三島神社がある。平安時代創建の神社の言い伝えでは、神の使者であるウナギが付近の魚をすべて食べてしまい、三島の大神が激怒、ウナギの子縁を召し上げてしまった。このために、ウナギは、子縁が少なく、どこで産卵するのかも不明なのだという。  1200年前から続く謎は、どんなに科学が進歩しても解明できない。 愛知、鹿児島、宮崎産が”浜名湖”に化けた時代  フランス料理には70種類以上のうなぎ料理があるが、日本でうなぎ料理と言えば、鰻を焼いた蒲焼きに決まっていた。茂吉も蒲焼き以外は食べなかった。福岡の「鰻のせいろ蒸し」、京都の「鰻雑炊」などもあるが、やはり日本人は茂吉同様にうな丼かうな重で決まりだ。  江戸時代初めに、香りのよい醤油が生まれ、美酒かみりんに鰻を浸し、醤油の中に突っ込んだ。徳川家康はウナギの天国のような湿地帯だった江戸を切り開いた。江戸城に入り、山を崩し、川を埋め、用水路を掘ったため、住民が増え、江戸は大都会になったが、天然ウナギの宝庫で、うなぎ蒲焼きは日本人の生活に欠かせないものになった。  ウナギ養殖が家康に関係の深い浜松で始まり、江戸だけでなく日本全国で鰻料理が食べられるようになった。戦後、「浜名湖うなぎ」はウナギの一大ブランドに成長した。1961年「うなぎパイ」が誕生したのも、浜松がうなぎ産地だったことと大きく関係している。「うなぎパイ」はウナギ由来の「うなぎエキスパウダー」が含まれ、「夜のお菓子」と呼ばれている。  20年前「浜名湖うなぎ」ブランドにあやかって、愛知、鹿児島、宮崎などのうなぎがいつの間にか「浜名湖うなぎ」に化けて店頭に並ぶこともしばしばだった。ところが、今回調べてみると、「浜名湖うなぎ」を売り物にしているうなぎ店はめっきり少なくなった。浜名湖うなぎに代わり、愛知、宮崎、鹿児島産などのうなぎ蒲焼きがそのまま店頭に並び、中国産に比べ高値で売られている。  駿河湾では、サクラエビ不漁が大きな問題になっている。浜名湖でもアサリ不漁が伝えられる。いずれも駿河湾、遠州灘、浜名湖の環境変化に原因があるのだろうが、これまでの乱獲がその大きな理由であるのは間違いない。  すべては「異変」ではなく、これが自然の本来の姿である。静岡県水産試験場浜名湖分場は50年以上もシラスウナギの謎を追い掛けてきたが、その成果を得られることはできなかった。浜名湖(浜松市西区舞阪)のウナギ養殖池はほとんど埋め立てられ、浜名湖うなぎは風前の灯火だ。いくら科学が進歩しても、自然を人間の力で何とかしようとすることに限界はある。鰻という日本人が大好きで、いくら高くても購入する商品であっても、ブランドを守ることなく、手をこまねいていれば、その運命はおのずと決まる。  約百年間続いた「浜名湖うなぎ」ブランドの消える日はもうすぐである。

ニュースの真相

静岡県立病院に「老年センター」設置を

「健康寿命」87歳が死傷事故起こす  「健康寿命」延伸を目的に、静岡県は「社会医学健康」研究のための大学院大学開設を進めている。「ふじのくに型人生区分」を提唱、76歳までを「壮年」とし、社会で元気に活躍する世代と位置づけている。従来の区分では高齢者に含まれる「壮年熟期(66~76歳)」を「健康寿命」現役世代として活躍してもらい、「支えられる」側から「支える」側へ転換する機運を盛り上げるというのだ。  先日東京・池袋で、東大卒の元通産省キャリア官僚がアクセル操作を誤り、百キロ以上のスピードで暴走、31歳の母親、3歳の女児の自転車に衝突、2人を死亡させ、8人に大けがをさせる痛ましい事故を起こした。アクセルとブレーキペダルの踏み間違えではなく、ブレーキペダルのことは全く語られていない。彼は87歳だった。高齢ドライバーが重大な事故を起こすリスクは若いドライバーの3倍を越える。いまや高齢者は道路で最も危険な存在だ。  「ふじのくに型人生区分」では、老年は77歳からであり、87歳を「中老」と呼ぶ。87歳ドライバーは自分自身をまさに「健康寿命」世代と過信して、ハンドルを握っていた。アクセルとブレーキペダルの踏み間違え、逆走など「健康寿命」高齢者の事故が毎日のように報道される。「健康寿命」高齢者が「老化」を免れていない証拠だ。そこをちゃんと把握して、県は施策を進めるべきである。「健康寿命」とは何かの定義をあいまいにして、莫大な事業費を投じることは県民にとってあまりに不幸だ。 「老化」には勝てない  高齢者の脳は萎縮する。30歳で脳は1・4キロあり、頭蓋骨にぎりぎり収まるぐらいの大きさである。40歳ころから灰白質(脳の表面の神経細胞の集まるところ)が喪失しはじめ、70歳になると、脳と頭蓋骨の間には2センチ以上の隙間ができてしまうほど灰白質は失われている。頭蓋骨の中で脳がゴロゴロと回ってしまうから、頭部への衝撃で、高齢者が脳出血を起こしやすい大きな原因となる。  最初に萎縮を起こす脳の部分は一般的には前頭葉である。前頭葉は判断と計画を司るところ。次が記憶を整理する海馬だ。高齢になると、作業記憶が失われる。いくら若いときに優秀だったとしても、悲惨な死亡事故を起こした87歳男性ドライバーの脳は昔のようには働いてはいない。彼は「アクセルが戻らない」と事故後に訴えたが、アクセル機能には何ら問題はなく、実際は前頭葉、海馬の機能に大きな問題があったことがうかがわれる。  87歳男性は足の関節を痛め、1年ほど前から病院へ通院していたという。老化の問題はパーツごとに起きる。骨や歯が軟化するのに合わせて、血管や関節、筋肉、心臓だけでなく、肺までもカルシウムが蓄積して柔軟さを失っている。40歳ごろから筋肉量と筋力が低下しはじめ、80歳になると筋肉の重量は若いときのほぼ半分に減ってしまう。  手足の関節は変形関節炎による破壊を受けて、関節の表面はガタガタになり、すり切れた状態になっている。「アクセルが戻らなくなった」という主張こそ、自分自身に起きている老化による運動神経の喪失結果(当然、脳にも及んでいる)を自覚できていなかった証拠だ。右足の不調というサインが出ていたが、「健康寿命」を過信して車を運転した。  この87歳男性のように「健康寿命」を過信した高齢者ドライバーが増えた場合、いくらテクノロジーが進歩しても、今回のような悲惨な事故が繰り返される結果を招くだろう。「健康寿命」が「老化」に勝てるはずもないのに、いつまでも若いという幻想だけを想起させることになる。 老年科医の役割こそ重要だ  衰えはすべての人の運命である。  わたしの母は80歳を過ぎてから、睡眠不足、食欲不振、ふらつきなどを訴えた。クリニックへ行っても、自律神経失調症と診断され、さまざまな薬を投与されるだけだった。このため、母の不調は改善されず、静岡県立総合病院をはじめ多くの病院を渡り歩いた。母の状態は一向によくならなかった。  浜松で開業する「老人」を専門にする医師を受診した。日本では珍しい老年科部門のクリニックである。  「今日はどうされましたか」。医師は彼女にちゃんとあいさつをしたあと、優しく質問していった。お互いの会話はにこやかに続き、母の顔には医師を信頼している表情が浮かんだ。血圧を調べたら、正常範囲。目と耳を調べ、開口させ、聴診器を出して心音と呼吸音を聴診した。母からすべての事情を聴いた。医師は、母に投与されていた5種類以上の処方薬をやめるよう指示した。それぞれが有用なことは間違いないが、有用性よりもふらつきの副作用を生じさせる原因だった。健康によいからと低カロリー・低コレステロールと銘打った健康食品を食べていたが、きょうからは高カロリーの食事をするよう勧められた。  医師はたっぷりと時間を取って話をするとともに、何と丁寧に母の耳垢を掃除してくれ、母が靴下を脱ぎ、爪を切り、そのあと、片足ずつどのように靴を履くのかなどを注意深く見た。医療の目的は特定の個別の問題-認知症、がん、高血圧、膝関節症、糖尿病など、それぞれに対して何かをすることは得意だが、老人の基本的な生活機能障害についてケアしていないのだ、と医師は話してくれた。  薬をシンプルにして、もし関節炎があるならばそれが収まっているのかどうか、足爪が切られているのか、耳垢をちゃんと掃除しているのか、どのような食事をして、食べる量が体力を維持するのに適しているのかなどをチェックする。老年科医の役割は患者が生活機能障害に陥らないように目配りすることのようだ。  人は余分な腎臓、余分な肺、余分な生殖腺、余分な歯を持ち、細胞はたびたびダメージを受けても修復を繰り返す。しかし、時間がたつにつれて、どんな優秀な修復システムでも全体を止めてしまうときが来る。老年科医の役割はそれをいくらか遅らせることである。  調べてみると、日本では老年科医の数は非常に少ない。もし、まじめに老年科医の使命を果たそうとすれば、病院のもうけはなくなるからだ。高血圧の薬をやめさせ、さまざまな処方をしなければ診療報酬を得られず、病院経営が成り立たないからだ。 「老年科医」の育成ならば理解できるが…  静岡県立総合病院に必要なのは「社会健康医学」研究のための大学院大学ではなく、高齢者にちゃんと対応する「老年センター」である。  「社会健康医学」研究の大学院大学有識者委員会委員長は、2018年ノーベル医学・生理学賞受賞者の本庶佑氏(77)。がんの免疫治療薬「オプジーボ」開発のきっかけとなるタンパク質を発見した。現在、小野薬品工業と「オプジーボ」の特許対価が低すぎるとして厳しく争っている。いくら有名人であっても、「老化」問題の専門家というわけではない。本庶氏自身が「老化」についてどのように考えているのか聞いてみたい。  大学院大学は疫学、医療統計学、環境科学などの教育を行い、県内の病院で働く医師、看護師らに社会健康医学修士を授与するというのだが、これで県民の「健康長寿」に役立つのか全く不明である。また、本庶氏は記者会見で「大学院大学は大きな投資であるが、将来静岡県の医師不足の解決につながる」と話した。本庶氏自身が静岡県の施策に疑問を抱いていることは確かだ。優先すべきは社会健康医学修士を育てることではなく、早急に医師確保をしていくための施策をすべきだと分かっているようだ。  静岡県立総合病院にはさまざまな診療科があるが、残念ながら老年科はない。最も多い患者は高齢者であるが、老年科の専門医が患者を診ていないのは、経営の点からというよりも、老年科医の役割が知られていないからだろう。  タイトル写真は、静岡市内でアクセルとブレーキを踏み間違えてコンビニに突っ込んでしまった高齢女性による事故直後の様子だ。今後、「健康寿命」高齢者が増加すれば、このような事故は増えていくのだろう。「健康寿命」と「老化」は、全く別のものであることをちゃんと説明できる老年科医こそが必要である。  静岡県立総合病院に必要なのは「大学院大学」ではなく、老年科医の育成も目指す「老年センター」であることを「壮年熟期」の川勝知事は理解すべきなのだろう。

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「桶狭間」今川義元のイメージを変える3

「無能」という評判の今川義元  「東海の覇者 今川義元と駿府」と題する展覧会が静岡市文化財資料館、駿府城公園巽櫓の2会場で開催されている。そのチラシを見て驚いた。「これまで『公家かぶれ』『無能』などの烙印を押されてきた義元の評価を見直し、実像を明らかにしていく」とあったからだ。「公家かぶれ」はいいとしても「無能」という評判は初めて聞いた。能力、才能のない指揮官を「無能」と呼ぶが、「桶狭間」で敗れたために義元は「無能」というレッテルを貼られてしまったようだ。  「無能」義元のレッテルを変えるのには並大抵ではないだろう。「義元の実像を明らかにする」ともあるが、滅亡した今川氏の資料は非常に少ない。そんな状態の中で、簡単に評価を見直すことなどできるのか?  そんな疑問に答えてくれるかもしれないのが、積み上げられた「がれきの山」である。  静岡市は田辺信宏市長の肝いりで2016年度から「駿府城天守台発掘調査」をスタートした。徳川家康が築城した江戸城より大きな駿府城天守閣の姿を再現するために、まずは天守台の詳しい調査から始めた。3カ年の調査で、約61m×約68mという江戸城天守台よりも大きな天守台を確認、秀吉の武将、中村一氏の駿府城天守台(約33m×約37m)も発見され、金箔瓦なども出土している。  その成果を踏まえ、「4年目の本年度は今川期(室町時代)の遺構を発掘調査する」と静岡市歴史文化課は説明している。天守台の地下深くを掘っていけば、今川時代の遺構があることがわかっているのだろう。  ひとつ理解できないのは駿府城跡天守台の調査を目的で始めたのに、家康の駿府城と今川遺構はどんな関係を持つのか?そうか、「今川義元生誕五百年祭」に合わせて、義元のイメージを変える大発見が駿府城天守台の下にあることが歴史史料で分かっている?早速、静岡市歴史文化課に聞いてみた。  「天守台の下に今川の遺構があるのかどうかわからない。将来、天守台再建をする場合、地下に何があるのか確認しておいたほうがいいから調査する」。全くの拍子抜けである。  さあ、「がれきの山」の出番である。このがれきは今回の駿府城跡天守台発掘調査で出ている大量の石や残土である、それらを積み上げて「がれきの山」となった。「がれきの山」の下には、お宝が眠っている?  ほとんどすべての人が忘れてしまっているお宝である。 「がれきの山」の下に眠るお宝?  1982年12月10日、静岡県庁記者クラブで突然の記者会見が開かれた。静岡大学の小和田哲男助教授(当時)が「駿府城跡地発掘で今川館跡とみられる遺構が見つかった」と独自の会見にのぞんだのだ。  その3年前。静岡県議会百年記念事業として県立美術館構想が決定すると、静岡市は建築家丹下健三氏のユニークな設計だった旧駿府会館跡地(駿府城公園内)に建設するよう求めた。静岡県知事は静岡市長の求めに応じて、駿府城公園に県立美術館を建設することを決め、80年から発掘調査が開始された。現在、静岡市が発掘している同じ場所である。当然、慶長年間の天守台と本丸遺構石垣の一部が出現した。このため、県立美術館建設地を北側に変更した。そう、ここが「がれきの山」付近である。  記者会見で、小和田助教授は「今川氏の居館か、周辺にあった武家屋敷に付随する庭園とみられる。極めて貴重な遺構だ」などと述べ、「美術館建設はほかに求めるべきだ」など強く求めた。突然の小和田助教授の記者会見で県庁全体が大騒ぎとなってしまった。  斎藤忠・大正大学教授を委員長とする有識者による検討委員会が設置され、議論を重ねた。翌年の1月末に「今川氏館の中世庭園とみられる遺構を保存すべき」と結論が出され、静岡県立美術館の駿府城公園内建設を中止した。そのときに「さらに精密に調べれば今川氏とのかかわりははっきりとする」との意見がつけられたが、今川氏館跡の遺構等は埋められてしまい、その後調査を行われることはなかった。当時は県立美術館建設が優先され、今川館跡などに関心は持たれなかった。そもそも静岡市所有の駿府城公園であるから、静岡市が調査すべきだったのだが…。  現在、静岡市が発掘調査する駿府城天守台跡地の土砂及びがれきを積んでいる場所が当時の「今川館の中世庭園とみられる遺構」。と言うことは、もう一度「がれきの山」を発掘すれば、今川氏館跡の遺構が発見される。だから、「がれきの山」の下にお宝が眠っているとはっきりと言える。  40年前に大騒ぎになったお宝。そのお宝「今川氏関連の文化財資料」はすべて静岡県埋蔵文化財センター(静岡市清水区蒲原)に保管されている。 知事、静岡市長の感情的対立ではない  タイトル写真は静岡市役所から臨む静岡県庁、発掘調査の進む駿府城公園のブルーシートも見える。非常に近い距離であるが、川勝平太静岡県知事と田辺市長との溝は大きく深いようだ。  3期目の当選を決めたあと、田辺市長は静岡県庁を訪れ、川勝知事と面会した。その席で、知事は「市の歴史文化施設について、県に何の相談もなく進められている」と不満を述べたようだ。2021年秋以降にオープン予定の歴史文化施設を「いったん棚上げにすべき」という意見を知事は持っているからだ。その発言の理由書「駿府城跡地自体が博物館機能を有し、旧青葉小学校跡地に博物館を建設すれば二重投資になる」を静岡市に送っている。  その通りである。静岡市は天守台跡地発掘でさまざまな発見があったことを踏まえ、本年度から「フィールドミュージアム」として県民らに見てもらうために検討に入った。文化庁は雨ざらしの状態でのフィールドミュージアムなど容認するはずもない。石垣などすべてをドームなどで覆い、保存展示する観光施設には莫大な費用がかかる。当然、知事の言うように博物館施設も必要になるから二重投資となってしまう。ここは知事の言うようにいったん中止することも考えるべきだ。  単に口を出しているだけではない。知事はさまざまな知恵だけでなく、事業費などを用意する腹積もりを持ち、それだけに厳しい物言いで田辺市長へ注文をつけたと見るべきだ。  県と政令市は対等であり、権限は同格であるが、日本平夢テラス同様に連携して取り組むのであれば、県民は大いに支持するだろう。静岡市の財政規模では、家康の駿府城跡、義元の今川館跡など全国に誇る施設をつくるのには無理がある。  「今川氏館の中世庭園とみられる遺構」を発掘、発見したのは静岡県である。文化財資料もすべて静岡県施設に保管されている。静岡市担当課は市長と県知事の関係を慮ってか、県の保管する貴重な資料について何も言わない。  ある新聞社説は「知事と静岡市長 感情的対立 何も生まず」として川勝知事を批判した。多分、知事の腹積もりを承知していないから、そのような論調になったのだろう。本年度から、発掘調査を担当する県教委の文化財課を知事部局の文化局へ移管した。これを見ても、知事が駿府城公園整備を連携して取り組もうという姿勢が見える。  卓抜した文化教養人の川勝知事登場となれば、「無能」今川義元のレッテルを貼りかえることなどお茶の子さいさいだろう。田辺市長は知事の腹積もりをちゃんと承知した上で、さまざまな懸案事項について虚心坦懐に対話すべきである。

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「桶狭間」今川義元のイメージ変える2

2020年5月静岡駅に今川義元像設置へ  タイトル写真は名古屋市緑区桶狭間北3丁目の桶狭間古戦場公園に設置されている「織田信長と今川義元」像。2010年5月、桶狭間の戦いから450年を記念して、名古屋市在住の彫刻家が1年半掛けて制作した。武器の中では槍を一番信頼したとされる信長に対して、「海道一の弓取り」と称された義元の特徴をとらえている。愛知、岐阜県内で信長人気は圧倒的だが、「桶狭間の戦いで大軍を率いながら、少数の織田信長に討たれた公家風の大名」(静岡市の今川義元生誕五百年祭チラシ)などと言った義元を貶めるようなイメージはこの像には微塵もない。  静岡市は2020年5月、JR静岡駅北口広場の竹千代像隣に今川義元像を設置することを決めたらしい。今川義元生誕五百年祭推進委員会(事務局・静岡商工会議所内)の取り組みで、静岡市に聞くと「予算を含めて商工会議所が主体的にやっていることで詳細はわからない」と言う。「予算はいくら、大きさ、デザインは?」と聞いても、「把握していない」という回答。これで本当に大丈夫か? 評判の悪い家康像の二の舞に?  駿府城公園に設置されている鷹狩りを楽しむ家康像は多くの市民、観光客らに親しまれている。ところが、専門家らは家康はこのような姿で鷹狩りをした事実はないと厳しい指摘をする。作者(故人)と静岡市の担当者に何度も鷹狩りの際の装束を説明をしたのに、当時作者らは聞く耳を全く持たなかったというのだ。  先日江戸東京博物館へ行った折、地下鉄大江戸線両国駅からの道すがら、大きな家康像に出くわした。こちらも鷹狩りを楽しむ家康である。ところが、駿府城公園の家康像と趣きが違っていた。  駿府城公園の家康像はまるで戦場に向かうように鎧の上に陣羽織の姿だが、墨田区に設置された像は鷹狩りにふさわしい動きやすい姿で日よけの笠もしている。鷹狩りは体を鍛える意味もあったが、趣味の世界であり、”健康オタク”の家康にとってはオフのひとときだった。家康は身長159センチとされ、駿府城公園の虚構の像とは違い、墨田区の家康像のほうが当時の家康に近いようだ。  2009年3月静岡駅北口に没後4百年を記念して設置された家康像は実際とは違い、あまりに太っているためか評判は芳しくない。  関ヶ原の戦い後に、徳川家臣団に正式に迎えられた小笠原秀政氏は60歳当時の家康像を作成、家宝とした。その後、小笠原家は久能山東照宮に家康像を寄進している。その家康を見れば、背筋がしっかりとのび、非常にスマートである。亡くなったあと、神格化され東照神君、でっぷりとした家康像がおなじみであるが、これはわざわざ大人風に余裕のあるような描き方をしたにすぎない。  仙台市を訪れたとき、駅前や街中、そして青葉城周辺に数多くの伊達政宗像が設置されていた。そのどれもが非常にかっこういいのである。政宗は、家康と同じ身長約159センチであり、どちらかと言えば、男前ではなかったとされる。政宗像は仙台市民の誇りであり、さまざまな商品に政宗✖✖とつけられるほどの人気ぶりだ。イメージづくりがいかに大切であるか、今回の今川義元像設置では十分考慮すべきである。 市民に親しまれる像にしてほしい  JR静岡駅南口には印象派の画家ルノアールだったかの制作になる女性像がある。豊満な裸の像であるが、これは芸術である。とにかく、ルノアールというだれもが知っている名前が重要だ。だから、その女性がいくら街中で裸だからと言って、それがけしからんとか、フランス人かロシア人の女性かなどと考える必要はない。言うなれば、女性像を見て「美しい」と感じるのが芸術であって、その女性がどのような人物だったかなど考えることは全くない。  一方、静岡駅南口ではなく、静岡駅北口には家康像がある。これは没後4百年を記念して設置されたから、当然芸術作品ではない。芸術性はなくても、歴史上どのように魅力的な人物だったか、訪れる人たちがなるほどと納得できることが重要だ。残念ながら、わたしの知る限りでは、2009年設置の家康像の評判はよくない。  家康像の制作者がだれかなど訪れる人にとっては関係ない。家康は、天下を統一後、晩年10年間を駿府城で外交、財政金融に当たり、オランダ、イギリス、スペイン、朝鮮、琉球などと実りある関係を結ぶなど、江戸270年の平和を築いた初代将軍である。江戸転封前、駿府城主だった50歳前の家康像をイメージしたならば、久能山東照宮の肖像画同様に背筋が伸び、スマートであってほしかった。ところが、神格化された東照神君像を参考にしたのか、ほうれい線はくっきり、年取った姿でどうも肉の弛緩ぶりなどを強調してしまった。今川義元は「海道一の弓取り」が1つのイメージのようだが、家康も同じく「海道一の弓取り」と呼ばれていた。  広島市は「公共の場での彫像記念碑等の設置許可基準要綱」を定めている。人物像については「相当程度の芸術的価値があり、広く市民にとって美的価値を有するもの」としている。静岡市に聞いたが、そのような要綱を持っておらず、今回の場合、ほぼ静岡商工会議所にお任せであり、行政としての責任は感じられない。商工会議所の役割は、地域の企業や商店街などの振興であり、半永久的に残る人物像の知見が十分にあるとは思えない。少なくとも、桶狭間古戦場公園に設置された「信長、義元」像以上の義元像を望みたいが、本当に大丈夫なのか。  「桶狭間」で敗れた義元のイメージアップを目的に設置するのであれば、市民の意見をよく聞いた上で、県都の玄関口・静岡駅前にふさわしいものにすることが静岡市の責任である。

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「桶狭間」今川義元のイメージ変える1

「桶狭間」は無様な義元のイメージをつくった  1941年12月真珠湾攻撃に先立って、連合艦隊司令官山本五十六は「桶狭間とひよどり越えと川中島を合わせ行う」という有名なことばを残した。おそらく勝てぬと覚悟した戦いに臨む山本は、信長の奇襲攻撃による短期決戦の勝利とともにその「死生観」に学ぼうとしただろう。  永禄3年(1560年)5月、駿府の今川義元は2万5千の大軍を率いて尾張に侵入、18日織田信長との先端を開いた。織田の兵力は総数わずか4千余り、丸根、鷲津の砦は今川方の攻撃を受けて陥落した。清州城でその知らせを受けた信長は19日未明から行動を開始した。小説、映画、テレビ等でおなじみの場面が繰り広げられる。その出典は太田牛一「信長公記」。  このとき、信長敦盛の舞を遊ばしそうろう、人間五十年、下天のうちにくらぶれば、夢まぼろしの如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか…  信長は幸若舞「敦盛」のこの場面を戦場に向かう前に謡い、舞った。さらに「死のふは一定、しのび草は何をしょぞ、一定かたりをこすのよ」の小唄を口ずさみ、信長の孤高の姿が多くの日本人の共感を呼んだ。  「桶狭間」は対米開戦を前に、日本軍参謀本部は真珠湾攻撃を行う際、奇襲攻撃と短期決戦、なによりも寡兵よく大敵を破るという作戦を説明するたとえに使った。信長を日本、義元をアメリカという大国の強敵にたとえた。  だからこそ、日本人は信長を好んだ。日本国民の多くがヒーローとして信長をたたえる大きな理由は「桶狭間」である。義元はその敵役であり、大軍を率いる凡庸な武将としてのイメージが持たれてきた。  そのイメージは間違ったものであり、義元のイメージを変える目的の大イベントが静岡市で開かれる。 「今川復権まつり」でイメージは変わるか  「今川義元の『桶狭間の戦いで大軍を率いながら、少数の織田信長に討たれた公家風の大名』というイメージは後世に作られたもので、実際は領国経営に優れた優秀な戦国大名」。今川義元生誕5百年祭のチラシにびっくりした。「領国経営に優れた戦国大名」を強調しなくても、静岡大学名誉教授の小和田哲男著「駿河今川一族」など戦国大名今川氏の研究でたびたび紹介されてきた。「桶狭間の戦いで大軍を率いながら、少数の織田信長に討たれた公家風の大名」は後世につくられたイメージだったというのである。  今川義元生誕5百年祭は、今川研究の第一人者、小和田氏が委員長となり、駿府城公園でイベントを繰り広げる「今川復権まつり」(5月3日~6日)をはじめ、「東海の覇者 今川義元と駿府」展(静岡市文化財資料館ほか)「今川シンポジウム」(静岡市民文化会館)などを大々的に開催、今川義元の功績を再評価、後世につくられたイメージを変えるのが目的となる。  「桶狭間の戦いで大軍を率いながら、少数の織田信長に討たれた公家風の大名」。「今川復権まつり」で日本人に長く定着した義元のイメージを変えることができるのか? 川勝知事が「桶狭間」での家康の働きぶりを紹介  歴史は、後世の者たちによってつくられていく。虚々実々に粉飾され、事実とは遠いところにあるのかもしれない。かっこういい信長の対極に位置する敵役の義元のかっこう悪いイメージを変えるのは並大抵ではない。  今川氏研究を長年行ってきた小和田氏にはその成算を胸に秘めて、このような大胆なチラシを作成したのだろうか?  今川義元公生誕五百年祭にちなんで、小和田氏が執筆した「駿府と今川氏」、さらに3月23日出版された「今川義元 知られざる実像」(静岡新聞社)を読んでも、イメージを変える戦略はどこにも紹介されていない。  そうだ、今川氏を滅亡させた甲斐の武田を滅ぼしたのは徳川家康である。今川方の一員だった家康は「桶狭間」でどのように戦ったのか?小和田氏の著作では、「人質」として駿府で義元に庇護されたイメージばかりで、「桶狭間」の家康の戦いぶりは紹介されていない。  いろいろ調べていくと、「桶狭間」で家康の役割を最も知るのは、川勝平太静岡県知事だった。1984年川勝知事が訳書として出版した「鉄砲を捨てた日本人」(ノエル・ペリン著)で、「桶狭間」での家康の働きぶりを明らかにしていた。 丸根城を陥落させた家康の戦略  「おそくとも1560年になる前から、大きな合戦では鉄砲の使用が始まっていたとみられる。というのも、同年、完全武装の武将(佐久間盛重)が鉄砲傷がもとで生命をおとしている」。本文の「注」を読んで驚いた。「武将佐久間盛重は丸根城を陣頭指揮していたが、1560年6月22日(西洋暦で和暦の5月18日)、同城は徳川家康に攻略された。この時、家康は『火縄銃の集中攻撃をたくみに利用した』。鉄砲の伝来から17年後のこと」。同書では「桶狭間」ではなくその前哨戦で、鉄砲を使って勝利を収めた家康の戦いぶりに注目していたのだ。  川勝知事の訳書をきっかけに「徳川実記」などで、「桶狭間」の家康の戦いぶりを調べた。  丸根城は沓掛から桶狭間を経て、大高城を見下ろす位置。そのまま放置すれば、丸根城から今川本隊へ思わぬ攻撃を受ける恐れがあった。織田方の大将、佐久間盛重は城を完全に締め切り、万全の防備を敷いた。家康は真正面から攻撃を仕掛けるが、苦戦、膠着状態が続いた。家康の劣勢を好機と見た盛重は城を打って出て突撃を指示する。  突然の総攻撃に家康軍はずるずると後退、盛重軍は勢いづいて攻撃を加えた。ところが、家康は先鋒の後ろに鉄砲隊を用意していた。運良く、一発の銃弾が盛重に命中、敵方の大将が馬から転落した。それを見て、家康軍は盛重に殺到、盛重の首を取る。敵の大将首が振り回され、家康側は逆転、織田方は総崩れとなり、丸根城を陥落した。鉄砲による勝利をもたらした初の事例として「鉄砲を捨てた日本人」で高く評価された。  桶狭間に陣を構えた義元に家康は勝利を報告、今川隊は歓喜に包まれる。義元は家康に大高城に入り、休養するよう命じた。その半日後、信長の騎馬隊が桶狭間を襲い、義元の生命を奪う。  そうだ、今川義元のイメージを変えるのは家康だったのだ。家康はその後、どのように「今川復権」に奮闘したのか? 泉岳寺は義元を祀るために家康が創建  「桶狭間」で義元が非業の死を遂げたあと、家康は4日後に岡崎城に戻っている。その4日間に何があったのか史実では語られない。翌年には信長と和睦し、その後の家康の活躍が続いていく。  家康と今川氏の関係がどのように続いたのか、頭から離れなかった。「桶狭間」当時、19歳だった家康は、駿府の「人質」時代の9歳から青年期まで10年間を育ててくれた義元を敬愛、その恩義を忘れなかったはずだ。  先年東京・高輪の泉岳寺を訪れたとき、その案内板に書かれている事実を見て、家康が義元への恩義を形に表わしたことを初めて知り驚いた。  慶長17年(1612年)泉岳寺を創建したのは家康であり、開山は今川義元の孫、門庵宗関(もんなん・そうかん)。泉岳寺と言えば、毎年12月14日の義士祭に数多くの人々が訪れる人気スポットだ。  門庵宗関は今川氏研究の第一人者、小和田氏の「駿河今川一族」(新人物往来社)、大石泰史氏の「今川滅亡」(角川選書)などに登場してこない。どのような人物であったのか不明であり、研究も進んでいないようだ。江戸長谷寺、豪徳寺を開山したことは分かるから、当然実在の人物であり、泉岳寺の案内板にあるように義元の孫である。(タイトル写真は泉岳寺の楼門)  何よりも、泉岳寺は義元を祀るために家康が創建したのだ。「泉岳寺」と義元の関係は、いまや顧みられることはない。あまりに大石内蔵助ら赤穂義士が有名で、義元、家康との関連などだれも気付いていないのだ。  慶長17年(1612年)4月義元の長子、氏真が駿府の家康を訪ねている。氏真75歳、家康71歳だった。武田方に氏真の今川家が滅ぼされたあと、家康は物心ともに氏真を支えた。京都に住む氏真は父義元のために創建された泉岳寺を訪れるのが目的で下向する途中だった。  創建当時の泉岳寺は品川にあり、1641年の大火で焼失した。三代家光は再建を指示、浅野家などが当たった。そして、元禄時代赤穂義士の討ち入りの物語の舞台となり、いまや日本人ならばだれもが知る場所となった。 泉岳寺の新たな魅力を売り込め  戦前、日本の敵だったアメリカのイメージをつくったのは日本軍参謀本部である。それに伴い、「桶狭間」の信長、義元のイメージもつくられた。戦後になり、アメリカのイメージは大きく変化した。「アメリカの文化」に多くの日本人が熱狂した。アメリカのイメージを変えたのは大衆だった。  残念ながら、歴史学者は歴史の事実を追うことはできても、歴史人物のイメージを変えることはできない。まずは、川勝知事の訳書「鉄砲を捨てた日本人」から「桶狭間」ではなく、家康の攻めた「丸根城」こそが世界レベルでは大きな注目を集めていることをより多くの人たちに知ってもらうべきだ。  今川義元と泉岳寺を結ぶ大きな太い線をたどるとき、全く違う義元像ができあがってくるだろう。12月14日の義士祭を中心に多くの日本人が訪れる泉岳寺は、義元、孫の宗関、家康とを結ぶ場所であることから始めれば、多くの日本人がその意味を理解するだろう。  忠臣蔵ゆかりの「仇討ち」で本懐をとげた赤穂47義士が主君浅野内匠頭の墓前に大石内蔵助らが報告に訪れた泉岳寺は、「桶狭間」で非業の死を遂げた義元の霊を祀るとともに、家康が天下統一を成し遂げたあと、少年期から青年期まで駿府で過ごした平和な10年間を国全体にもたらすことを誓った場所でもあるのだ。  義元のイメージを変えるためには、田辺信宏静岡市長は川勝知事と手を結んで、家康が創建、義元をまつる泉岳寺の新たな魅力を売り込むところから始めたほうがいい。 (次回2は2020年設置予定の今川義元像について説明します)

お金の学校

バブル崩壊前夜、マンション購入すべきか?

すぐそこにある「マンション絶望未来」  タイトル写真の「不動産バブル崩壊前夜」(週刊東洋経済)の見出しはあまりに衝撃的。その少し前の特集は「すぐそこにある、マンション絶望未来」。中国経済の減速、ヨーロッパ経済の不透明などが連日報道され、景気減速による危機的な状況がひたひたと近づいている様子を伝える。平成バブル崩壊とともに、地価は上がり続ける「土地神話」は崩れたが、その後もマンション建設は順調に続いた。2007年アメリカの住宅バブル崩壊、サブプライム住宅ローン危機(日本ではミニバブルが続いていた)、2008年リーマンショックで一挙に大不況の波に襲われた。それからまた10年以上が過ぎた。雑誌タイトルの「バブル崩壊」前夜に不安を持つ読者は多いだろう。いまマンションは買い時か否か?  お先真っ暗な見出しやタイトルは、雑誌購買をうながすための出版社の常套手段かもしれない。そうは言っても、バブル景気をあおってきた2020東京オリンピック開催、”令和”改元の祝賀ムードも終わり、異次元の財政出動の弊害が再来年(2021年)以降に起きてもおかしくない。  思い起こせば、1991年「平成バブル崩壊」を引き金に不動産業界は長い冬の時代に入った、と言われる。わたしは93年に”バブルマンション”を購入した。果たして、その判断は正しかったのかどうか? 東海地震をにらみ地盤の強固さ調査  バブル時代に計画された91年竣工の分譲マンション購入を勧められたのがきっかけだった。住宅ローン返済を考えれば、マイホーム購入を検討すべき年齢を過ぎていた。当時は「年収の5倍」が住宅ローン借り入れ額の目安と言われた。バブル崩壊の実感はさらさらなく、当時サラリーマンの年収はちゃんと増え続けていた。「年収の5倍」を頭に入れれば、借金の不安を感じることはなかった。  静岡市で人気の安東、大岩地区などの戸建て地域ではなく、JR静岡駅の徒歩圏内、映画館やデパートに近い中心部に住むのが希望だった。阪神大震災、東日本大震災も起きておらず、2000年までには東海地震が発生すると信じられていたから、戸建てより鉄骨鉄筋コンクリートマンションのほうが安全であり、地盤の固い地震に強い地域がどこかを探した。最初、中古マンションを回ってみたが、中心部の地価の高い静岡市の土地柄とあいまって、古い割には高値安定傾向で、良い物件は非常に少なかった。  そこで新築の2年落ちマンション、JR静岡駅まで約15分、駿府城公園まで約10分とパンフレットではうたっていた。便利な中心部で周囲の環境も悪くなく、液状化などの心配のない強固な地盤を確認、さらに大幅値引きがその気にさせられた大きな理由だった。  何度かの交渉後、大幅値引きするという営業マンの勧誘にまんまと乗っていた。豪華なマンションのパンフレットに、当時の売り出し価格表が添付されていた。約8518万円から約6122万円、いかに”バブル価格”だったかいまになればわかるが、中古マンションを含めて中心街のマンション供給は少なく、高値の時代だったから、まあそんなものかと考えた。「1千万円程度の値引き」に応じる交渉から始まった。「1千万円」の値引きに驚いた。マンション価格とはどうなっているのか?  「土地代+建設費用+販売管理費(広告費など)+利益」。新築マンション価格は業者が以上の4点を計算した上で、適当なマンション価格をつける。ふつうに考えれば、1千万円もの値引きをすれば、業者の「利益」はゼロに近くなるだろう。ところが、さらなる交渉を重ねると、とうとう値引き額は2千万円となった。本当なのか。それで何かこちらが得した気持ちにさせられてしまった。ついに「買いたい」と言っていた。 年利4%、35年返済で当初の倍額に  マンション購入となると、真っ先に頭に浮かぶのは住宅ローンをいくら借りるかという問題だ。頭金を工面して、結局3500万円を30年間で借りることにした。当時の公的融資は、財形住宅融資と年金住宅融資。2つの公的融資を目いっぱい借りることで、3500万円調達のめどを立てた。  財形住宅融資年利4・1%、年金住宅融資年利4・32%と4・5%。それぞれの「金銭消費貸借契約書」が手元にあるが、返済期限は平成40年(2028年)9月。39歳で契約したから、返済終了は74歳である、70過ぎてローン返済の未来は想像したくもなかった。  35年ローンで毎月15万円程度の返済。3500万円の借金で、当初の年間利子だけで約150万円。もし、35年間で返済していたら、ほぼ倍額7千万円近くを支払う計算だ。97年1月の財形住宅融資償還額は9万9202円(元金分4万5486円、利息2万5636円、団体信用特約料2万7608円、手数料472円)、98年10月の年金融資償還額は7万3811円(元金6万1118円、利息1万1658円、手数料300円、特約料735円)の合計約17万3千円を支払っている。  繰り上げ償還を行い、50歳までを目標に、遅くとも定年の60歳までには住宅ローン完済を目指した。  バブル崩壊で大騒ぎしていたが、サラリーマン収入はその前後で極端に変わっていなかった。実際は、ミレニアムを迎える2000年を境に会社側の給料減額が露骨に始まる。「新入社員は3年で辞める」はこの頃から。辞める最大の理由は、仕事の割に昔のような給料を払わなくなったからだ。政府がデフレ脱却を目標にしても、若い人たちの給料が上がらない、住宅ローンの年利4%時代はもしかしたら、良い時代だったのかもしれない。 賃貸のほうが費用は少ない  現在の金利は当時に比べて極端に低い。年金住宅融資は2005年で新規受付を終了。現在の財形住宅融資は金利0・76%(当初5年間)とある。金利4%に比べれば、夢のような時代を迎えている。  当時の消費税は2%だった。住宅ローン金利は1%前後で限りなくゼロに近づいているが、消費税は10月から10%にアップする。増税を機会に、人生最大と言える”借金”に踏み出そうと考えている人は多いだろう。もし、気に入った住宅(あるいはマンション)があるならば、多額の”借金”を気にするべきではない。グッドタイミングは「買いたい」という気持ちを持ったときだ。  繰り上げ償還の目標を立て、ふだんの生活でなるべくムダな費用を節約、いまの時代ならば副業もOKなのだ。   マンション購入ではなく、賃貸という方法もある。これは非常に難しい問題だ。29階建ての呉服町タワーマンション(2014年竣工)は75平方㍍で賃料月24万円(入居一時金72万円)、27階建て七間町エンブルマンション(2017年竣工)は93平方㍍で同29万円(同87万円)。管理費・修繕積立金、固定資産税などの負担はないが、年288万円から348万円の家賃は決して安くない。  購入よりも賃貸のほうが気は楽なことは確かだが…。 固定資産税額を調べるべきだ  マンション購入で、ほとんどの人が全く考慮外になっているのが、固定資産税額。バブルマンションの場合、建設資材など建築費が非常に高く、その価格が固定資産税額と密接に関係する。  もし、現在、マンション購入を検討しているのであれば、固定資産税課を訪れ、購入を考えているマンションの固定資産税額を確認したほうがいい。5月7日まで縦覧制度を利用、七間町エンブルマンション、呉服町タワーマンションなどの固定資産税額を見ることができる。  購入時のドタバタの中では、固定資産税が高いのかどうかなど考える余裕などない。翌年3月静岡市から固定資産税等通知書が届く。わたしの場合、最初にもらった固定資産税額は年約28万円だった。びっくりしてしまった。年間4回に分割でき、毎回約7万円の支払いは本当に痛かった。  入居から26年を経て固定資産税は下がったが、その後のバブル崩壊後に建設されたマンションに比べて、固定資産税額は非常に高い。その年の建設物価で固定資産税が決まり、その後は係数を掛けるだけだから、安い建設物価時代の固定資産税は安く、バブル時代の固定資産税は高止まり。その年の建設物価を再計算してくれるわけではない、バブル時代の高値の固定資産税額がその後もずっと追い掛けてくる。ところが、マンションの市場評価額は新築マンションのほうがずっと高く、固定資産税額だけはわたしのマンションのほうが高いという不公平が続く。  ここ数年続いたマンション価格の上昇を見れば、建設物価も高値であり、固定資産税額も同じように高いはずだ。七間町エンブルマンション、呉服町タワーマンションなど最近建設された高層のマンション購入を検討する場合、ローン返済計画とともに毎年支払う固定資産税額を調べることを奨める。当然、高層階であれ、低層階であれ、固定資産税額は変わらないことも頭に入れておいたほうがいい。

取材ノート

青葉通り「右折禁止」ー分かりにくい標識  

「右折禁止」ではなく「指定方向外進行禁止」標識  静岡市七間町、青葉交番前の交差点では時々、交通取り締まりを行っている。青葉通りから昭和通りにぶつかる信号のある交差点は右折禁止だから注意しなければならない。非常にわかりくにくい道路標識を見落として、「右折」するドライバーは数多い。当然、知らなかったではすまされない。反則金7千円の罰金、2点減点だ。  6日(土曜日)午後、その交差点で白い大型4WD車が右折すると、すぐに逆の一方通行の通りへ右折して行ってしまった。わたしはその一部始終を目撃していた。ちょうど目の前の青葉交番前横断歩道に、2人の警察官が立っていた。だから、当然、警察官は大型4WD車を停止させると思ったが、2人は全く反応しなかった。わたしは信号が青になるのを待って、横断歩道を渡ってきた警察官に「なぜ、右折禁止なのに検挙しないのか?」と問い掛けると、2人は「見ていなかった」と答えた。白の4WD車は最初は「右折禁止」を右折、その次に「赤信号」を無視した。少なくとも2つの交通違反に問われていいはずだ。  2人の警察官も何もなかったように白の4WD車が消えた方向へ歩いていった。青葉交番に入り、駐在する警察官にいまの経緯を話したが、それでどうなるわけでもない。警察官が交通違反を見逃しても罰金になるわけではない。「見ていなかった」で問題ない。  約30年前、静岡市に赴任した際、この標識(実際には「指定方向外進行禁止」と呼ばれる)を見落として、右折したため交通取り締まりに当たっていた警察官に検挙された。反則金を支払い、反則点数をつけられた苦い記憶を持つ経験者は数多いだろう。  右折違反が何らかの事故につながったわけではないし、その恐れも少ない。しかし、時々交通取り締まりを行っている。静岡県警交通指導課にその辺の事情を聞いた。 交通違反を摘発しない場合も多い  当然、横断歩道を渡ろうとしていた2人の警察官は交通取り締まりは任務ではなかった。「何か違反があれば検挙するのが基本だが、別の任務を優先して交通反則切符を所持していない場合もある」と説明した。当日は50万人(主催者発表)の人出でにぎわったしずおか祭りの警戒に当たるのが任務だったのかもしれない。  善意に考えれば、4WD車運転者は右折禁止の標識に気が付いていなかったのかもしれない。青葉交番前では時々、交通取り締まりを行っている。目の前の警察官2人も目に入っただろう。そんな状況下で平気で交通違反をするドライバーがいるとは思えない。  そのすぐ近く、青葉通りと両替町通りの信号のある交差点は一方通行のみで、やはり右折禁止だ。こちらの交差点でも、静岡市外の人は標識に気が付かないで、右折してしまい、時々検挙されるケースがある。右折することで何も問題がないと、ほとんどの人は思い込んでいるが、地元の人たちは右折禁止ルールを知っているから、遠回りする。 「軽車両」は「軽自動車」のことか?  ところで、「指定方向外進行禁止」の標識の下に「軽車両を除く」の文字標識。いろいろなところで見掛ける文字標識で、わたしは「軽車両」とは「軽自動車」だと思い込んでいた。今回、静岡中央署に聞くと、「軽車両」とは自転車、リヤカーのことで、「軽自動車」は含まれないという。最近市街地でリヤカーを見掛けないから、「軽車両」とは自転車を指す。これも混乱する標識だ。わたし同様に「軽車両」を「軽自動車」だと考えている人のほうが多いかもしれない。  右折禁止は左折と直進許可の標識ではなく、はっきりと右折禁止を示す標識にすべきだし、「軽車両を除く」ではなく、「自転車を除く」としなければ、時々「軽自動車」ドライバーは右折するかもしれない。 1933年のゴー・ストップ事件  1933年(昭和8年)6月大阪市の繁華街で「ゴー・ストップ事件」が起きた。陸軍1等兵が赤信号を無視して横断しようとしたのを交通係巡査が注意したが、その声を無視して横断したことで、巡査は一等兵を交番に連行してひと悶着が起きてしまう。一等兵のささいな交通違反事件は警察、陸軍のメンツを掛けた争いになり、軍部は「統帥権」を振り回して警察の取り締まりを批判、天皇陛下の裁断で決着する。軍部はこの事件をきっかけに公務外の「統帥権」を認められた。  ささいな交通違反事件を発端に軍部全体が「赤信号」を平気で無視し、日中戦争、太平洋戦争へと日本全体を巻き込んでいってしまったのだ。  当時は青信号をゴー、赤信号をストップと呼んだが、大都会・大阪でも信号が珍しく、通行人全員が信号標識を理解していなかった。「青は進め」「赤は止まれ」が道路交通取締法で正式に決まるのは戦後、1947年になってから。もしかしたら、最初に赤信号を無視した一等兵は「赤信号=ストップ」を理解していなかったかもしれない。  交通標識1つを知らないことで国全体を巻き込んだ大問題になる恐れがある。標識は分かりやすく理解できるようにしなければ、大事故につながる。交通取り締まり、交通違反摘発も必要だが、今後外国人旅行客などの増加を見込み、本当に「わかりやすい標識」をまずは優先すべきではないか。

静岡の未来

天野氏の猛追かわす?「嵐の船出」だ!

「市民の2人に1人が批判的」  「天野氏の猛追かわす」は、静岡市長選で田辺信宏氏勝利に対する中日新聞の見出し。「嵐の船出」は川勝平太静岡県知事が記者らに話したことばで、各紙が使っている。  当選後、田辺市長は静岡県庁を訪れ、川勝知事に非公開で6分間だけ面会した。新聞報道によると、「選挙中、知事に仲良くしてほしいという声をたくさんいただいた。今日しかないと思い、知事に会いに来た」「これまでのことをノーサイドにして未来志向で県といい関係をつくりたい」という田辺市長の思いだったが、川勝知事は「(不仲を)チャラにしたいなら、市民がつきつけた批判を謙虚に受け止め、話し合うことが大事」「市民の2人に1人が田辺氏に批判的で『嵐の船出』だ。市民が立ち上がればリコールもありうる」など厳しい姿勢を見せた。知事はこれまで批判した田辺氏の施策について、田辺氏が何らかの対応を見せる用意もなく単なる”表敬訪問”のつもりで県庁を訪れたことに大いに不満だったようだ。  選挙結果で言えば、田辺氏13万8454票に対して、天野進吾氏10万7407票、林克氏3万3322票。2人の対立候補の得票を足せば、14万票余で田辺氏を上回り、知事の言う2人に1人は田辺氏に批判的ということになる。  しかし、天野氏には3万票余の大差をつけている。これで、なぜ、天野氏”猛追”との見出しがついたのか? 静岡市長選、全国で最も遅い”当確”  7日投票の終わったあと、全国放送で選挙特番が始まった。投票終了後の午後8時に番組が始まると、浜松市の鈴木康友氏をはじめ全国の知事選、政令指定都市の市長選でほとんどの当確が打たれた。残ったのは、保守分裂で総務省官僚同士の一騎打ちの激しい選挙戦となった島根県知事選と静岡市長選のみだった。  午後9時50分前には島根県知事選の当確が打たれた。  残ったのは、静岡市長選のみになった。静岡市長選は保守分裂でもなく、自民推薦、連合支援をはじめ各種団体の支援を受け、それも現職2期目の田辺氏優勢は動かないから、何の問題もなく、ふつうに午後8時過ぎに田辺氏の当確が打たれると予想された。ところが、田辺氏の当確が出たのは、午後10時20分頃だった。激しい選挙戦の展開された島根県知事選ならば理解できるが、田辺氏当確がなぜ、全国で最も遅い時間となったのか?天野氏との差は3万票だったから、少なくとも島根県知事選よりも早く当確が打たれて問題なかったはずだ。保守王国島根を分裂させた県知事選よりも、さらに30分、全国で最も遅い時間の当確は何を意味するのか?  中日新聞の静岡市長選特集で、田辺氏の選対幹部が「葵、駿河区で勝つのは当たり前、清水区で(新人2人の合計票より)1%でも多くの票を取らないと、次の4年に支障をきたす」と発言した。そのくらいの自信があるのもうなづけたが、その結果はどうだったのか?  全国で最も遅い当確と清水区の得票数の持つ意味は大きい。 天野氏”猛追”は単なる幻想だが…  清水区の田辺氏得票は4万5019票、天野氏4万1802票、林氏1万2260票、天野、林合計票5万4062票。つまり、1%多いどころか、20%、約1万票以上も少なくなっている。「次の4年に支障をきたす」どころか、これは大変な話かもしれない。  葵区で天野氏の2倍近く、駿河区で1・5倍近くの得票を田辺氏は得ているのだから、終わってみれば、天野氏”猛追”は単なる幻想に近いのだろう。つまり、各社の記者は、七間町に新たに設けた大きな選挙事務所をはじめ、各種団体による万全の支援体制で田辺氏がのぞんでいた割に、得票が伸びず、力強さに欠けたことで、”当確”を打つのを躊躇したのだろう。  午後10時開票が始まり、約20分も過ぎて、ようやく予想通りの田辺氏の勝利を確信でき、各報道機関担当者たちは”当確”を打った。  記者たちを疑心暗鬼にさせたのは、川勝知事の存在が大きかったのかもしれない。 知事は一線を越えてしまった  7日各社朝刊では、選挙戦最終日になって川勝知事が市街地で天野氏の応援演説のためにマイクを握り、天野氏支援を鮮明にしたことを紹介した。知事は自治体首長の選挙とは一切関わらないと何回も明言してきただけに、メディアもびっくりしただろう。「田辺氏の政治手腕をことごとく否定してきた知事が自ら定めた一線を越え、行き着くところまで行った印象だ。関係修復は容易でない」(中日新聞・広田和也記者)。田辺氏はこの記事を読まなかったのか。  静岡新聞は『「ノーサイド」の説明 ほご』との見出し。記事本文には「ほご」は使われていないから、読者は「ほご」を「保護」と勘違いしたかもしれない。非常にわかりにくい見出しである。「ほご(反故)」は「ないものとする」の意味で使ったのだろうが、「ノーサイド」は知事がよく使う「チャラにする」と同じで、「帳消しにする」。この点、田辺氏は当選後、「これまでのことをノーサイドにして未来志向で…」と発言、こちらは知事と同じ意味で使っている。このあたりはラグビー好きの稲門会同士といったところ、お互いに理解し合える関係にあるのだが…。  新聞見出し同様に川勝知事の行動は分かりにくかった。天野氏が市長選に勝利する見込みは非常に薄いのは分かっていて、応援演説で「市長特別補佐官」に副知事派遣などのリップサービス、これでは、冷静沈着な政治家ではなく、感情にまかせた発言、ただ単に田辺氏を嫌っていることを明らかにしたにすぎない。(知事に比べて話が上手ではなく、ナルシスト的なイメージが強いのが原因かもしれない。よい参謀がいないのだろう) 当確は遅れたが、投票率は低かった  今回の投票率は葵区49・18%、駿河区46・08%、清水区50・62%、全体では有権者58万4837人に対して、28万5142人、48・76%。約30分前に”当確”が打たれ、激しい選挙戦が展開された島根県知事選は62・04%だったから、いかに静岡市長選が低調だったか推して知るべしである。  「川勝VS田辺」シリーズを何度か、このニュースサイトで紹介している。たとえば、「”歴史博物館”建設は棚上げを!」をご覧いただきたい。それぞれの好き嫌いは別に、静岡市施策に対する課題、問題は多い。当然、田辺市政だけでなく、川勝県政に対しても批判すべきところは多いのかもしれないが、静岡市政のほうが目立っている。  投票率の低いのは、争点が何なのか、判断材料となる「情報」が非常に少ないことだ。川勝知事は田辺市政を批判するのであれば、もっと丁寧に判断材料を市民に提供すべきだったかもしれない。  国交副大臣の「忖度」発言で「下関北九州道路」への関心は全国的に高まったが、それほどには静岡市、静岡県の地域問題をほとんどの市民、県民は理解していない。  昨年アメリカのニュージャージー州、ワシントン州、サンフランシスコ州を旅して、それぞれの地方新聞を読むと、全国の問題ではなく、自分たちの住む地域の問題に焦点を当て、本当に細かいところまで紹介していた。ところが、日本の新聞はすべてが中央の問題に目がいき、地域の問題はほんの少ししか取り扱っていない。また、地域の問題もほとんどは行政の発表記事が多いようだ。  川勝知事のいう通り二重行政の問題は、静岡市の場合、さまざまなところに見られる。大きな争点がないのではなく、大きな争点が具体的に何であるか見せれば、投票率は上がるだろう。  「投票へ行くと、どう変わる?」。静岡県選挙管理委員会はクリアシートを配布していたが、その中身をちゃんと説明、関心を持たせるにはどうしたらいいかだ。

現場へ行く

CCRC?富裕層が静岡市を目指す理由

入居一時金は夫婦で6400万円  脳死した男児(当時1歳)の肺を提供した両親が、大学病院やテレビ局などの対応に不満を持ち、損害賠償請求を近く起こすというニュースが5日新聞、テレビ等で流れた。これで、日本ではますます子供の脳死による臓器提供移植は進まず、その一方、アメリカに渡航、心臓移植などをするための寄付金活動がこれまで以上に多くなる可能性が高くなった。  海外の臓器移植での寄付金目標額は半端な額ではない。ネット検索すれば、3億円や3億5千万円を目標に、〇〇ちゃん、✖✖くんなどの臓器移植募金活動が数多くヒットする。その内訳では医療費5000万円、渡航費5800万円など多額の費用が掛かることを説明。移植手術以外助からない子供の生命を救うのに3億円は非常に安いのだろうが、すべての人が支払える額ではない。  先日、静岡市呉服町にできた「札の辻クロスビル」の住宅型有料老人ホーム(ロングライフクイーンズ静岡呉服町)のチラシを見て、びっくりした。夫婦入居タイプの部屋(45・8平方㍍)で、入居一時金「6400万円」!そんな高額な費用を支払える裕福な夫婦は静岡市内にどのくらいいるのだろうか?入居資格は65歳以上だから、ほとんどは年金生活世代だ。  入居時の6400万円だけではない。毎月の支払いは、管理費26万1千円、食費(3食)は1人当たり7万2千円の14万4千円。合計で毎月40万5千円+電話代、美容健康費、医療費、外食交際費など自己負担も必要だ。6400万円を支払った上に、毎月約50万円もの費用を支払えば、十年で6000万円、二十年で1億2千万円だ。当然、通常の費用以外に思い掛けない出費が出てくる。ちょっと長生きすれば、海外での臓器移植と同様の3億円(夫婦2人)になるかもしれない。 健康長寿には3億円程度必要だ  江戸の昔は、十両盗めば打ち首という時代だった。父親が川で溺れてしまい、泳ぐことのできない息子は途方に暮れていると、通りがかりの男が「十両出せば助けてやる」と言う。息子「三両しか出せません」と頭を下げると、男「仕方がない。七両に負けてやる」。溺れていた父親がそれを聞いていて「息子よ、それ以上だすな!それ以上だすくらないなら、わたしは溺れて死ぬ」。この笑い話を現実に置き換えると、なかなか深い意味を持つ。臓器移植が必要な難病の子供がいても、3億円なければアメリカへ渡航して、臓器移植の順番待ちに加わることはできない。寄付金を待っていられない両親は、子供のために3億円を借金できるのだろうか?  子供の生命を救うためとはいえ、両親は3億円の借金を躊躇するかもしれない。簡単なことだが、寄付による善意の3億円は返さなくていいが、借金の3億円は利子をつけて返さなければならないからだ。  呉服町にできた札の辻クロスのマンション型有料老人ホームに入れば、健康でぼけることなく、長生きできるのであれば、高齢者たちは何としても資金を用意したいと思うだろう。施設を見ると、8階から12階のマンションタイプの部屋は26平方㍍(1人用)から46平方㍍(2人用)であまり広くはないが、豪華でさまざまある共有施設やスタッフの支援など快適な生活を送ることのできるよう工夫されていた。  一番の問題は、65歳以上の夫婦はいまから借金できないだろうから、そこへ入居するためには夫婦で頑張って3億円くらいの貯蓄が必要だ。 真の狙いは富裕層の静岡市移住  チラシのキャッチフレーズに「静岡市とロングライフの官民一体プロジェクト CCRC(生涯活躍のまち静岡)」とあった。そうか、静岡市が有料老人ホームを後押ししているのだから、ここで暮らせば「健康長寿」を保証してくれるのか。  再開発ビル「札の辻クロス」は13階建てで、1~2階は商業施設、3~5階は駐車場、6~7階は健康関連施設と多目的ホール、8~13階が有料老人ホーム84室だ。CCRC構想は、田辺信宏市長が推進する5大構想の1つ「健康長寿のまちづくり」を実現するための重要施策だと説明。  昨年10月の開業直前に有料老人ホームを運営する会社が変更した。その理由は明らかにされていない。8~13階の所有者が前の運営会社との契約を解除、入居時費用や月額の管理費用の面で齟齬があったようだが、民間同士のことだから、静岡市は説明を避けた。当時の新聞や仲介業者HPを見ると、引き継いだ運営会社日本ロングライフの入居一時金は約1880万円~3770万円とうたっていたが、システムをかえて現在のチラシ等にある6400万円などに変更したようだ。  CCRCの取り組みは、高齢者を対象とした静岡市中心街での生活を提案。直接的な事業として、1、地域交流を促進するコンシェルジュの配置、2、お試し移住体験(静岡市が有料老人ホームの一室を借りて、1日1500円で生活体験する)、3、健康関連イベントの実施を挙げている。  人口減少対策として、東京などの富裕層の高齢者を静岡市へ移住促進することが狙いだという。いまのところ、10組(1人あるいは2人)が生活体験に参加しているが、東京からの参加者は極わずか。  ロングライフの担当者によると、84室のうち、25室程度が契約をしたようで、そのうち7割程度は静岡市在住者、平均年齢83歳とのこと。この数字を見ると、CCRC構想はこれからといったところか。実際にはこれで運営は大丈夫なのか、担当者に聞きたくなったくらいだ。  すぐお隣にある29階建て呉服町タワーマンションの賃貸物件は入居一時金(敷金、礼金)72万円程度、1LDK57平方㍍17万8千円、2LDK75平方㍍24万円、毎月の管理費・修繕積立金、固定資産税など5万円程度。こちらも決して安くはないが、札の辻クロスの住宅型有料老人ホームがいかにずば抜けた超高級感で売っているのかがわかる。  ロングライフは住宅型有料老人ホームを、京都嵐山、兵庫県の苦楽園芦屋別邸などブランド力の高い地域で運営。果たして、静岡市呉服町に首都圏等から超富裕層の高齢者が移り住むことになり、静岡市の掲げる「地方創生の取り組みモデル」なるのかどうか、しばらく注目していきたい。

取材ノート

新聞記者という職業2「市長の首を取って来い」

なぜ、静岡市長を辞めたの?   25年も前の事件となると、記憶は定かではない。幼かったり、静岡市に住んでいなかった者も多いだろう。とりあえず、当時の新聞記事を探した。静岡市長の不祥事を追及する記事が次から次と見つかった。1年間の世相を振り返った1994年12月23日静岡新聞朝刊の記事に「静岡市長辞職 なお残る政治倫理確立」という見出しで事件の概要をまとめてあった。  静岡市長辞職 静岡市の天野進吾前市長は平成4年(1992)の市議会以来、市内に採石用地を持つ業者との海外旅行など親しい交際を追及された末、「これ以上、関係者に迷惑を掛けたくない」と任期途中の6年(1994)7月いっぱいで辞職した。市議会に招致されたが”疑惑”の一切を否定した。県警もゴルフ場問題を含め天野氏から事情を聴いたものの立件を断念し真相ははっきりしないままに終わった。  「真相ははっきりしないままに終わった」。事件は藪の中で終えたから、より分かりにくくなっているのだろう。その事件を追及するための静岡市調査特別委員会(1994年10月6日付静岡新聞朝刊)の記事は非常に長く詳しい。「市議会に招致されたが、”疑惑”の一切を否定した」と12月23日記事にあったが、その記事で「疑惑の一切を否定」は間違いであることがわかった。  「採石業者との海外旅行など一連の不祥事の真相解明に取り組む静岡市議会調査特別委員会に、参考人として出席した天野氏は旅行費用の負担を採石業者から受けるなど金銭の便宜を受けたことを初めて認めた」。何と、市長当時、採石業者からの金銭の便宜供与を天野氏は認めているのだ。  しかし、採石業者との交際は「友人としての付き合い。相談や依頼を受けたことはない」と、採石業者に行政上の便宜を図ったことを否定して、特別調査委員会を乗り切った。このあと、多数会派の自民党が同委員会を廃止を決めたことで紛糾した様子も伝えている。  旅行費用を業者が負担したが、友人の立場であり業者としてではないという主張は、あまりに都合よく聞こえる。「業者として交際したことはない」「(バンコク旅行の招待を受けたことに対して)海外旅行は個人の立場で出掛けている」と答え、さらに採石業者から1400万円を受け取ったという報道に対して、「友人としての付き合いの中で金の貸し借りはあった」「税務に関係するものではなく、プライベートなものだ。具体的に申し上げる必要はない」と退けている。これでは市長として好ましくないと一般市民は考えるだろう。結局、旅行接待だけでなく、金銭の貸借も認めたが、市長としての行政上の便宜供与はないから、問題なしとの見解が通ってしまった。「本当にそれでいいのか」という疑問を多くの市民が抱いたのではないか。  記事の最後。「天野前市長は、前市長の不祥事を議会で最初に取り上げた議員に向かって、「前議長に『市長の首を取って来い』と言ったそうですね」と詰め寄った。閉会後、記者団に囲まれた前市長は、この発言が権謀術数の説明といい「きょう最も言いたかったこと」と声を荒げた」。内容はわかりにくいが、田舎芝居”市長の首を取って来い”といった一場面をほうふつさせた。  静岡市長選候補、天野氏の市長辞職理由を知りたいと考えて、当時の新聞記事を探した。お金にまつわる問題だったことだけをうろ覚えしていた。今回、メディアの選挙報道は過去の事件に全く触れていない。当時の事情をよく知る記者はだれもいなくなり、忘れてしまったのか? 「昔の静岡」を取り戻すとは?  ことし2月24日、天野氏が静岡市長選出馬を宣言した際、「昔の静岡を取り戻してほしい」との多くの市民の声にこたえ決断したと報道。川勝平太静岡県知事は天野氏の出馬報告を受けて「よく決断された」と称賛している。92年からの約2年間、お金にまつわることで市政のゴタゴタを招いているが、その時代にもう、一度戻してほしい、ということか。  「周辺に迫る捜査の手を何とか逃れようとする市長の決断が辞意表明を予想以上に早めたといえそうだ」(94年7月10日付静岡新聞)。こちらの「決断」は出馬ではなく、辞職だが、25年前の「決断」は逃げ腰だ。  そのほぼ1カ月後の「静岡市議会の鈴木和彦議長が辞職へ 天野前市長の辞任でけじめ」(94年8月5日付静岡新聞)の記事を読んで飛び上がるほどびっくりした。わたしも「昔の静岡」事件に巻き込まれていたのだ。  記事の中で、「鈴木氏の辞意を、6月議会で表面化した『老人病院準備資金保管問題』と関連づける推測も出ている。鈴木氏は『(資金保管問題について)一切、やましいことはない。迷惑な推測だ』と、同問題との関連を否定した」とあった。  「鈴木氏は昭和62年11月、当時、市西北部に民間老人病院の開設を準備中の知り合いから現金7百万円を受け取った。知り合いへの出資者が計画の資金繰りに不審を抱き鈴木氏に返還を要求し鈴木氏は全額を返還した。  現金の趣旨を問題にされたのに対して鈴木氏は『理事の一人として将来、理事会を組織する中心になってほしいと持ってきたので準備資金として預かったが一切、手をつかないまま返した』と反論した。  鈴木氏は前市長の辞意表明後、一時、ポスト天野の有力候補の一人に浮上しかかったが、同問題が響き擁立の動きが消えた経過がある。」  そうか同じ頃だったのか。この記事に本当に驚いたのは、わたしが記事にある出資者のごく近い身内だったからだ。深い事情を知らないまま、わたしは静岡市議会議長室へ出向き、初対面の鈴木氏を訪ねた。その席で身内から頼まれ、病院の準備資金として提供した2千万円を返してもらうようお願いした。この問題を厳しく追及していた服部寛一郎市議(故人)に面会して、話を聴いた記憶もある。当然、老人病院は設立されず、中心となった発起人は莫大な借金を抱えたまま失踪した、と聞いた。  こんな「昔の静岡」に戻してほしい、と考えている市民はどんな人たちなのだろうか。25年前の一連の事件をすべての市民が忘れているわけではないだろう。わたし同様にうろ覚えなだけだ。 だれの「選挙ポスター」を破ったのか?  30日静岡南警察署は静岡市長選の特定候補ポスターを破ったとして80歳男性を逮捕した。周辺では同様の事件が10件弱起きていて、警察は警戒に当たっていた。現行犯逮捕された恩田原地区は静岡南警察署のすぐ東隣の地域である。  罪名が公職選挙法違反(自由妨害罪)となっていたので、警察に「なぜ、器物損壊の現行犯ではないのか」と聞いた。それに対して、特定候補ばかりを狙ったポスター破りだったので、公選法違反を当てたのだという。自由妨害罪のほうが器物損壊罪よりも少し罪は重くなる。  80歳男性は特定候補へ恨みか何かを持っていたようだ。28日までは警察署周辺で破られたポスター掲示はそのままだったと聞いた。と言うことは、すでに破られたポスターを再掲示してあるのかもしれない。  警察では「特定候補」の名前を発表していない。早速、恩田原地区へ向かった。いくつかの選挙ポスター掲示板を見つけた。遠くから見れば、わたしの近所にある選挙ポスター(タイトル写真)と全く同じだ。ところが、近づいていくと、天野氏のポスターのみ画鋲でしっかりと固定されていた。別のポスターも同じで、天野氏のみ接着剤で張り付けたあと、画鋲でもしっかりと固定されていた。他の候補との違いがそこにあった。多分、この地域だけだろう。 新聞は過去の報道を忘れてはならない  週刊現代4月6日号の記事「間違えたのは検察や裁判所だけですか?冤罪だった『滋賀・呼吸器外し』事件 じゃあ、新聞はあの時、どう報じていたか」。この記事を読んでいて、新聞報道は過去の事件記事から全く無縁ではないことを実感した。  取材者は変わっているのだろうが、同じ媒体なのだから、過去にどのように報道したのか、それを踏まえることは重要なのだろう。昭和41年(1966)に起きた袴田巌さんの事件、わたしの入社当初には事件取材をした数多くの記者がいた。元共同通信記者から話を聞き、さらに、当時この事件でスクープ記事を連発した毎日新聞エース記者にも会って話を聞く機会があった。当然、袴田さんを有罪だとみな思い込んでいた。  当時の新聞が、袴田さんの事件をどのように報道したのかを踏まえた上で、現在、冤罪事件として取材する新聞社記者は袴田さんに向き合うべきなのだろう。わたしの場合、袴田事件を取材する機会に恵まれなかったが、袴田事件を追った三一書房新書「地獄のゴングが鳴った」(高杉晋吾著、1981)を読んだあと、じゃあ、清水市で起きた一家4人殺しの真犯人はどこにいるのかという疑問が強く残ってしまった。  静岡県内には冤罪事件が多く、清瀬一郎弁護士が中心となった幸浦、小島、二俣の3大無罪事件。沼津市で起きた正木ひろし弁護士らが中心となった丸正事件。過去の事件といまの事件はつながっているのかもしれない。  選挙民に数多くの判断材料を与える選挙報道でも、過去の事件と無関係ではいられないだろう。  1992年10月、第1回大道芸ワールドカップが開催され、大きな感動を呼んだ。同じ年に青葉シンボルロードができたという。いずれも天野市政の業績と訴えている。それはその通りなのだろうが、その同じ年に天野氏は”友人”との交際疑惑を市議会で追及され、2年後の辞職につながっていくのだ。  今回の静岡市長選は当然、なぜ、25年前市長は辞職したのかと切り離せない。静岡新聞の見出し「なお残る政治倫理の確立」を検証してもいい。  天野氏が今回の市長選で、当時の疑惑に対してどのように答えているのか不明だ。マスメディアは臆せず、過去の事件に対して目を向けた上で、市長選を報道すれば、市民はもっと関心を持つだろう。  80歳男性は破ったポスター候補に何か腹立たしい思いがあったのだろう。警察署は選挙戦に配慮して、投票前には何も公表しないのだろう。各候補に対する市民の不満は大きいようだが、静岡市長選があまり盛り上がっていないことだけは確かだ。