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ニュースの真相

「成年後見制度」のなぞ1 家裁の役割とは

親族後見人は不正を働く?  朝日新聞19日付1面トップ記事に『成年後見「親族望ましい」』『選任対象 最高裁、家裁に通知』『専門職不評利用伸びず』という3本見出しの長い記事が掲載された。その記事は、ことし1月、最高裁が全国の各家裁に送った通知を基に書かれた。その通知「制度の利用促進を図るため、できる限り親族等身近な支援者を後見人に選任することが望ましい」を最高裁で確認した。使い込み不正のため、親族後見人は毎年右肩下がり、2018年では子供などの親族による後見人が23%にすぎない状況を改善する狙い。  朝日記事によると『後見人の選任は各裁判官が個々の事案ごとに判断するため「あくまで一つの参考資料」』(最高裁家庭局)の見解も示している。これでは、利用促進策の趣旨を反映させるのは難しい。それだけ難しい事案が多いのだろうか。  後見人等による不正報告件数は2013年662件、ピークの2014年は831件、約56億7千万円。その不正のほとんどが親族によるもので90%を超えていた。ああ、そうだったのか、最初に会った静岡家裁書記官(女性)のわたしに対する不審に満ちた視線の意味をようやく納得できた。 静岡家裁から突然の「照会書」  2013年7月10日、突然、静岡家庭裁判所から封書が届いた。返信用封筒と「平成25年(家)第✖✖✖号 後見開始の審判申立事件」と記され、姉が母の後見開始の審判を求める申し立てについて、審理の参考にするため、以下の4点についてアンケート記入して返送を求める「照会書」が入っていた。  1、あなたは、今回の申立を知っていますか。  2、ご本人に後見等開始の手続きをすることについて、どう思われますか。  3、ご本人の後見人に、裁判所が選んだ第三者(弁護士、司法書士、社会福祉士等)を選任することについて、どのように考えますか。  4、その他、ご意見等があればお書きください。  ここで言う「ご本人」とは母のことだ。たったこれだけのアンケートでも簡単に理解するのが難しい。とにかく詳しい説明を受けようと、家庭裁判所に出向いた。そこで、担当する女性書記官に会ったのだ。  ところで、「照会書」アンケートには最後まで、何も記入しなかった。 成年後見人は母の希望?  静岡家裁で事件番号✖✖✖号の「後見開始申立書」をじっくりと閲覧、指示したページをすべてコピー(有料)してもらった。  とにかく難しい用語が多い。「後見・保佐・補助」のうち、「保佐」は「補助」とどう違うのか分からない。「後見」に手書きで〇印が入れてあった。島田市の弁護士が申立代理人だった。当時、母(当時87歳)は実家(島田市)から介護付き有料老人ホーム(静岡市)に入所して、2カ月もたっていなかった。  びっくりしたのは、弁護士が書いたと思われる「申立ての理由及び事件の実情」の(特記事項)だった。 「現在、本人(母)の預貯金、保険等の金融資産はすべて長男(わたし、申立人の弟)が管理中であり、申立人は無論のこと、本人は一部を除きその内容を全く把握していない。本人の希望としては、自らの財産を長男にすべて開示してもらった上で、実子のいずれかではなく、弁護士等の専門職(第三者)に管理を委ねたいと思っている」とあった。  これでは、母の財産をわたしがすべて恣意的に独占して、場合によっては使い込む可能性があり、姉は成年後見制度に「正義」を求めたとしか思えないだろう。  本人(母)が希望?その日も、自宅近くの施設へ出向き、母に会っていたが、こんな話は出なかった。母が何も言わないはずがない。  家裁から送られた「照会書」を見てすぐに、やって来たのは後ろめたさのためであり、わたしに向けられた書記官の視線は「いまさら何を言っても遅いですよ」と冷ややかに諭しているように見えた。 医師と弁護士の相対立する主張  その約1年前に父が亡くなり、母、姉との遺産分割協議書をわたしが作成した。そのときも姉は弁護士を立たが、今回の弁護士は全く別人だった。なぜ、弁護士を変えたのだろうか?  申立書に添付された診断書(成年後見用)をじっくりと読んだ。母に付き添い何度も面会した、島田市の脳神経外科医が担当していた。それですべてがようやくわかった。認知症の長谷川式検査19点、その検査日付は5月13日となっていた。  その2か月前、自宅から静岡市の有料介護施設へ母はお試し入所した。体験入所(1週間)を経て、1週間ほど自宅に戻り、姉が母を正式に施設へ連れてきた。その1週間で脳神経外科医院、その近くにある弁護士事務所へ連れて行ったのだ。  診断書の「本人の能力に関する事項」で「制度や申立ての意味を理解して意見を述べることは不可能である」にチェック、さらに「言葉・筆談等で周囲の者と意思疎通ができないか、できるようにみえても意味が通じない、または通じないことが多い」にレ点が入れてあった。  まてよ、これでは弁護士の(特記事項)と矛盾するではないか。そこで、わたしは「『本人の希望として、弁護士等の専門職(第三者)に管理を委ねたいと思っている』と(特記事項)に書いてあるが、医師の診断書では『制度や申立ての意味を理解して意見を述べることは不可能』としてある。診断書は、母を心神喪失の状態としているのに、弁護士は『希望する』などの会話ができるなど全く正常な識別能力があると書いている。これは全く信用できない申立書ではないか」と書記官に疑問を述べた。  わたしの意見に、書記官は何も応じず「もし、この申立書に何か意見があるようでしたら、別の文書で提出してください」などと話した。裁判所書記官は何らかの判断をしてはいけないのかもしれない。  しかし、こんな矛盾した申立書をおかしいと裁判所が判断できないようではムダな時間と費用が掛かるだけになる。 死ぬまでにお金を使い果たす  2カ月前、母が入所した施設の個室には現金、通帳等を置かないことが規則。近所のファミレス、食堂や移動販売のパン屋、雑貨、衣類など購入も施設がすべて立て替えてくれ、月末に母の口座から引き落とす仕組み。施設の美容室、鍼灸マッサージなど希望で何度も受けられ、週1回の主治医往診などもすべて口座払いだったから、現金は全く不要だった。  当然、わたしが通帳類を管理していた。また、銀行の本人確認は年々厳しくなり、わたしが勝手に現金を引き落とすことなどとうてい無理だった。  10年以上前の両親との会話を思い出した。父から財産管理の相談を受けた際、「生命保険」など不要だからやめるようアドバイスした。  経営コンサルタント、大前研一さんは「日本人は死ぬ瞬間が一番金持ち、イタリア人は生きている間に使い果たす」と言っていた。「貯めたお金はなるべく自分たちの人生のために使い切ったほうがいい」とアドバイス。両親たちの貧しい苦労した時代をよく知っているだけに、生命保険などすべて解約して、それでどこかに旅行するよう話した。  2人は厚生年金で十分すぎるほど生活できていた。田舎暮らしであまり使わないから、預貯金は増える一方だった。父は車を乗り換えるのが趣味だったが、突然、亡くなってしまい大切な財産を使い果たすなどできなかった。 家裁調査官を派遣してほしい!  当時、母は大声でないと聞こえず、その上、補聴器を嫌うから、他人との会話はスムーズにできなかった。加齢による物忘れもしばしばあった。ただ、長年経理の仕事をしてきただけに数字には強く、特に財産管理について正常な判断ができた。父が亡くなったあと、介護保険認定を受け、介護度1に認定された。「後見」対象となる「判断能力が全くない」認知症であろうはずもなかった。(詳しくはニュースの真相「認知症のなぞ1 家庭裁判所の『診断書』」をご覧ください)  後見開始申立書に本人以外の申立の場合、申立付票1、2が付いていた。そこに「家庭裁判所調査官が本人のところへ面接調査へ行く場合がありますが、留意点(訪問可能な時間帯、訪問する際の本人の精神面への注意等)があれば記載してください」とあった。  何だ、簡単だ、家裁調査官に母の施設へ行ってもらい、母の状態を確認すればはっきりとするだろう。そうすれば、母が成年後見を望んでいないことがはっきりする。成年後見がどのような制度か母には理解できていないだけだろう。母はたとえ弁護士でも赤の他人が自分の財産を管理することなど望んでもいない。調査官が大きな声で、わかりやすく言ってもらえれば、母にも十分理解できる。そうすれば、ムダな時間と費用を使わなくて済むだろう。  「まず、調査官の派遣をお願いします」。書記官にそう言ったのだが、やはり、先ほどと同じで「申立書に何か意見があるならば、別に文書で提出してください」と言った。当時は全く知らなかったが、国の方針で制度の利用促進が重要だったから、書記官はその方針に従っていたのかもしれない。  成年後見制度って一体何なのだ?裁判所が話をわざわざ難しくしているのではないか?もし、申立が増えたら、本当に対応できるのだろうか?  次回は事件の当事者としてではなく、静岡家裁で取材してみた成年後見制度とは何かを紹介していきたい。

現場へ行く

静岡市中心街の信号機が消えた理由は?

突然信号機が撤去された  3月13日、静岡市の七間町通り、両替町通り交差点の信号機が消えてなくなった。何の前触れもなく、街中の信号機が突然、消えてなくなったのだから、毎朝通勤、通学に使っていた市民、学生らは本当にびっくりしただろう。  早朝、散歩していて信号機がなくなったのに気づいたとき、何年か前、七間町通りを代表するオリオン座(東海地方一の大画面を誇っていた)、ミラノ座など映画館がすべて消えた記憶がよみがえった。そのときは何度も告知があり、建物の解体から始まったので、しみじみと「シネマ通り」の名前にお別れを言うことができた。  今度のお別れは突然だった。信号機ひとつとはいえ、昨日まで見慣れた風景が変わってしまった。信号機があるのが当然だったから、タクシーなどは歩行者に注意して交差点を慎重に通過していくのがわかった。何かの工事の都合で一時撤去されたのか、それとも信号機自体の具合が悪くて修理に出されたのか?そんなことも考えた。  いずれにしても、静岡市中心街交差点にあった信号機がなくなるのは初めてだ。  静岡市は人口減少を止められず、商店街の地盤沈下が大きな課題だ。交差点近くの人気ラーメン店が昨年夏閉店、交差点角にあった中華バーミヤン(2階は系列イタリア料理店)は駐車場に変わり、老舗あなごやなども消えた。七間町通りでは数多くの空き店舗が目立つ。交差点の近くにあった家具・雑貨店も閉店、いま現在は4月7日投開票のある静岡市長選候補の後援会事務所として使われている。選挙が終われば、また空き店舗になってしまうだろう。  そうか、人通りがめっきりと少なくなり、信号機は不要と判断されたのか? 警察の判断で信号機は撤去できる  道路の維持管理は静岡市だが、信号機を設置、維持管理するのは警察署。早速、静岡中央署交通課に聞いた。「信号機を13日未明に撤去した。告知等はしなかった」と回答。やはり一時的なものではなく、未来永劫に不要なものとして撤去されたのだ。「信号機を設置してほしい」という地域からの要望は数多いと聞く。「信号機撤去」も地元民の要望なのか?  「撤去の手続きは明確に決められていないが、警察署内で検討した上で、県警本部の了解を受けた。当然、静岡市に報告した」。そうか、やはり寂れていく街に信号機は不要と判断したのか?  「そのような理由ではない。単に交差点の信号機がなくても安全と判断した。また、歩行者にとってはムダな待ち時間がなくなるから便利で流れがスムーズになる」。つまり、人通りが少なく街が寂れたのではなく、街の活気を取り戻すためと言っている。札ノ辻から七間町通りと言えば、江戸時代の東海道として一番活気のある通りだった。  そう言えば、すぐ東側の七間町通りと呉服町通りの札ノ辻交差点にも信号機は設置されていない。週末には、呉服町通り、七間町通りは歩行者天国となり、多くの家族連れでにぎわう。午後1時からの歩行者天国は最近、午前11時からと2時間も前倒しされた。そうか、七間町通りも呉服町通りのように活気ある通りにするために信号機を撤去したのか。  人が歩きやすい街に、活気ある通りにしたい!待てよ、「活気ある街づくり」に信号機は不要だと言えば? 中心街に残った信号機とは?  わたしの頭の中に浮かんだ街の様子を概念図にしてみた。  お分かりだろうか。さまざまな道路が交差しているが、主要道路との信号を入口、出口とするとその面の中に、ただ一カ所のみ信号機が中心街に残されている。撤去された交差点のすぐ南側、2つの青葉通り、青葉緑地(青葉シンボルロード)、両替町通りの交差点、横断歩道にある信号機だ。  毎週末ごとに、青葉緑地でさまざまなイベントが開催され、多くの市民らが詰め掛ける。信号機があるばかりに、歩行者は待たされることが多い。スムーズな人の通りを重視するならば、2つの交差点信号機を撤去したほうがいいのでは?また、にぎわいの街づくりにも不可欠なのでは?  「できればそのようにしたい」。中央署担当者は力強く答えた。ぜひ、そうすべきだ。  しかし、そう簡単なものではないらしい。地元の意向等を十分に聞いた上で撤去しなければならないからだ。今回のように突然行えば、市民らからクレームが出るかもしれない。一方通行の青葉通りも交通量はそれほど多くはないが、信号機がなくなって不満を唱える住民がいるのかもしれない。  何よりも地元の活気や発展をのぞむのは、青葉緑地の終点にあり中心街を見渡す静岡市役所だ。静岡市が率先して信号機の撤去を地元に提案すれば、スムーズにいくに違いない。  「まちは劇場推進課」など派手なキラキラネームの担当課をつくっているのに、なぜ、静岡市は信号機を撤去するよう連携しないのか? 権限のないことはやりたくない  中央署から信号機撤去の報告を受けた静岡市道路整備課(維持係)に聞いてみた。まずは、信号機の設置、撤去の権限は静岡市ではなく、警察にあるという説明から始まった。権限のない事業については、あまり考えたくないというお役所式の答弁だ。  「街のにぎわい」のために信号機が必要かどうかを検討はできるのでは?「それはその通りだが、道路整備課が担当ではなく、市街地整備課や都市計画課、商店街を管轄する商業労政課(清水区役所)などのいずれかが担当する」。うーん、街全体をデザインするとき、各課のセクショナリズムを廃して、一番よい方向に調整する部署がないと言っているように聞こえる。どこも実際には、直接の担当ではないから、もしかしたら、たらい回しになる可能性も出てきた。  とりあえず、市街地整備課へ行ってみよう。 コンパクトシティにするためには   「車優先ではなく、歩行者たち優先のにぎわう場所にしていきたい」。市街地整備課で話を聞いていたら、お隣の都市計画課担当者がやってきて、そう言った。それならば、信号機は不要では?「当然検討していく」と回答。えっ、検討?いつ、どこで議論していくのかと聞けば、いまのところはそういう場所はないとのこと。裏を返せば、信号機撤去の担当課ではないので、検討材料ではあっても全く考えていない、と聞こえてくる。  「一方通行の青葉通りで車のスピードが出てしまう。信号があることによって減速できる」。市街地整備課担当者の信号機はあったほうがいいという意見だ。車に乗っていて、一刻でも急ぐといつの間にかスピードが出てしまうのはよくわかる。  交通事故の抑止効果で信号機の役割は大きい。それでも、静岡中央署は七間町通り、呉服町通り交差点の信号機撤去という、びっくりするくらいの英断に打って出た。信号機撤去で交通事故が起きれば、責任を覚悟の上だ。  そう考えれば、青葉通りのほうが危険性が高いというのはうなづけない。交通標識、道路標示などで周知すれば、信号機の効果に近いはずだ。  週末に呉服町、七間町通りだけでなく、両替町通りも「歩行者天国」にしたほうが活気が生まれる。人口減少対策を専門とする日本銀行の竹内淳静岡支店長は「コンパクトシティとして街中にもっと人を呼び込むことで街の魅力を発信する、そのための規制緩和をやるべき」と話している。信号機のひとつもない中心街という「魅力を発信」するために、最後に残された信号機(「規制」)をなくすことに全力をつくすべきだ。  静岡市長選の各候補は中心街の信号機撤去を公約に入れたほうがいいのでは?

お金の学校

よくわかる銀行ー豚の貯金箱との違いは?

20万円では利子のつかない時代   タイトル写真は、小学校高学年から中学生を対象にしたPHP研究所「よくわかる銀行」(2018年2月時点の情報)の「貯金箱と銀行の違いは?」に使われた図で、「銀行の口座に預金してお金をふやすことを『貯蓄』といいます」と説明されていた。  果たして、この図は正しいのか?  先日静岡銀行呉服町支店へ行き、NPO法人の普通預金通帳に記帳しようとした。2度やっても「取引はありません」と表示。2018年2月から記帳していない。「休眠口座」の制度が始まった。毎年1回通帳記帳すれば、取引をしたことになるのだろう。ATMに通帳を通せば、利息が印字され取引成立のはずだ。それなのに3度目の正直でも「取引はありません」という画面。約20万円も残高があるのに、利子がつかないはずがない。そう考えて、窓口へ行った。  説明によると、普通預金金利0.001%だから10万円あれば、1年間の利子は1円。ところが、利子は半年ごと(2月、8月)2回つくから、利子も半分になるという。半年ごとの20万円の利子計算は次の通り。  20万円×0.001%×半年(1/2)=1円  しかし、これでも1円の利息はつかない。税金が20.315%掛かるから、税引き後1円ではなく、80銭弱となる。銀行利子は1円以上だから、80銭では利子はつかなくなると説明。つまり、20万円の普通預金では利子がつかなくなる。計算では、残高25万円以上ないと利子1円さえ獲得できない。(25万円の場合、半年ごとに1円、年利2円)  ちょっと複雑だが、こんな簡単なことさえ知らなかった。 銀行は預金者の味方か?  それで静岡市立図書館へ行って、「お金」「銀行」を書名に入れて調べると、300冊以上がヒットした。その中から、なるべく簡単な子供向けに書かれた最近の本を探した。「よくわかる銀行」(PHP研究所)「池上彰のはじめてのお金の教科書」(幻冬舎)「新しい時代のお金の教科書」(ちくまプリマー新書)の3冊を借りた。  そこで、タイトル写真に使った「よくわかる銀行」の「貯金箱と銀行のちがいは?」の図に出くわした。10000円を銀行に預けると、1年後には10001円(金利が年0.01%の場合)。普通預金(年利0.001%)ではなく、一般的な定期預金なのだろう。ただ、定期預金でも税金は掛かるのだから、この場合、1円を獲得できないはずだ。静岡銀行で聞いたことが事実ならば、1万円の定期預金では金利1円はつかない。PHP編集部に連絡を入れた。  それに対して、担当者は「税法では、1円未満の端数は税金が掛からないことになっている。だから、1円の利子はそのまま預金者が受け取るはずだ」と説明。約20%の税金も預金者に代わって、銀行が支払っているにすぎない。その税金が掛からないのならば、1円はそのまま預金者の所得になるという論理だ。銀行の説明が違っているのか?  それで、都市銀行の三菱UFJ銀行静岡支店に確かめた。担当者によると、1円の利息は80銭弱、税金は約20銭で両方とも端数になり、端数は切り捨てることになる。つまり、静岡銀行と同じで1万円の定期預金では1円はつかないことになる。1万3千円の定期預金でないと、1円はつかないわけだ。PHP担当者の「預金者の利益」となる説明通りにはいかず、「銀行の論理」が優先する。つまり、利子はつかないから、豚の貯金箱も銀行口座も同じというわけで、「よくわかる銀行」の図は間違っている。  普通預金だと、ようやく25万円で1円、100万円で約8円、1千万円で約80円。本当に本当か?と目を疑いたくなる。1千万円を預けて、たったの年80円。それに比べて、ATM時間外(PM6時以降、AM9時まで)手数料は108円だから、1千万円の利子よりも手数料のほうが高いことになる。  お金をふやす「利子」の面だけを見れば、豚の貯金箱と銀行は同じだ、というわけだ。 0.35%もの高金利の銀行とは  利子をふやしたい場合、どうするのか?  静岡市内でいま、最も金利の高い定期預金を出しているのは、横浜幸銀信用組合静岡支店(静岡市葵区黒金町)のファースト定期預金(3月29日まで。5年間、年利0.35%、税引き後0.280%)。ちょうど、知人から百万円の定期預金が満期になるが、高金利のところはないか聞かれ、紹介した。100万円で利息年3500円。一般的な定期預金金利(0.01%、利息年100円)に比べると、35倍ものずば抜けて高い金利だ。  その話を友人にしたあと、ネット銀行(通帳はなくカードのみで、スマホなどで取引)のソニー銀行を調べてみた。ソニーのキャンペーンは、紹介者に1500円、100万円預け、条件さえ満たさば4千円を翌々月にプレゼントするという。さらに、カードを2カ月間コンビニなどで5回使えば、1千円をプレゼント、合計5千円が3カ月後に預金者の口座に入ってくる。横浜幸銀に1年間預けるよりも、2倍近くの現金が3カ月間で稼げる。  ドル預金の金利は2.2%。1ドル111円として計算すれば、100万円の預金で1年後に約1万7000円の金利(為替手数料15銭)。為替リスクをちゃんと頭に入れて取引できれば、はるかに高い金利を得る。最初横浜幸銀に行こうかと迷った友人は、結局、最初から5千円得になるソニーを選んだ。  PHP研究所「よくわかる銀行」のサブタイトルは「仕事の内容から社会とのかかわりまで」。それでは、図に書かれたような預金者の1円(約20銭が税金、約80銭が利子)はどこに行ってしまったのか?子供のときから、正確な情報を与えなければ、わたしたちと銀行のかかわりはとうてい理解できない。

取材ノート

「文化」を廃れさせないために

「文化」とは何かを見つけるもの  右指で調子を取りながら、気炎を上げる小説家埴谷雄高氏(75)。後ろの席でにこやかに笑う評論家久保田正文氏(73)、その隣の2人は評論家本多秋五氏(77)、小説家藤枝静男氏(78)。戦後文学の中心で活躍した錚々たる顔ぶれが浜名湖畔に集まった。カッコ内は当時の年齢だ。  1985年6月24日夜。浜松市在住の藤枝氏の招きに応じて、雑誌「近代文学」創刊同人らが駆け参じた会合の1枚。10人が夜遅くまで酒を酌み交わしながら、それぞれの談論風発を楽しんだ。1966年以来、毎年夏、浜名湖弁天島で2泊3日の愉快なときを過ごすきまりになっていた。超難解な「死霊」という長大な作品を書き続けていた埴谷氏もこの日は酔っ払いの愉快な親父になって管をまいた。当時、「死霊」第8章の執筆中だった。  「みんな元気であった。毎年かならず明けがたまで起きていてしゃべりつづけた。昼も寝転がってしゃべりつづけていた。ー時はどんどん過ぎて行く。池のなかでもその外でも。苛々(いらいら)して何かを見ようとしても、その術をみつける手掛かりはつかめない」。1976年に発表した短編小説「出てこい」に、藤枝氏が仲間の集まりを書いている。青春の悩みも60代熟年世代の悩みもその質に違いはあっても同じで、何かを見つけるために悪戦苦闘する。 「文化」を理解するには年齢も必要  「死霊」の書き出しは以下の通りである。  『最近の記録には嘗て存在しなかったといわれるほどの激しい、不気味な暑気がつづき、そのため、自然的にも社会的にも不吉な事件が相次いで起った或る夏も終りの或る曇った、蒸暑い日の午前』。主人公が精神病院の門をくぐる重たい場面で始まる。  初対面の埴谷氏に、小説「死霊」を理解するのは非常に難しいと話すと、即座に「若いとき読んで分からなくても年を取れば分かる」と答えてくれた。「40歳を超えなければ理解できない文学は世界中にたくさんある。たとえばゲーテの『ファウスト』。書き終えたとき、ゲーテはすでに80歳を超えていた。ぼくが『ファウスト』を最後まで読むことができたのはずっと年を取ってからだ」と続けた。  それから30年以上が過ぎたが、果たして、いまならば「死霊」を読み通すことができるだろうか?  静岡市美術館で開催されている「起点としての80年代」展(3月24日まで)を見ていて、昔、埴谷氏の言ったことばが思い出された。30年前の「インスタレーション」や「メディア・アート」という作品はほとんどなじみがなく、そしてやはり難解だったからだ。どこかで見たことはあったのだろうが、強い印象を与えなかった。絵画や立体芸術は視覚を通して感じるかどうかだが、日本語をイメージとして理解するのは全く違う。 瞬間を切り取るのが「文化」  東京・上野の国立科学博物館「砂丘に眠る弥生人」展(3月24日まで)は1950年代に発見された多数の弥生人骨が展示されていた。物言わぬ2千年前の何十体もの白骨が語り掛けた。「いずれ死んで白骨になるぞ」。酔っ払った埴谷氏はその夜、大きな声で叫んでいた。目の前の白骨は具体的な「死霊」であり、生きている埴谷氏は「死霊」をイメージしただけにすぎなかった。  30年以上を経て、その夜に参加していた者で生きているのはわたしだけになった。みな埴谷氏の言った通りに白骨に変わった。そういうことである。理解しようが、理解できないとしても、瞬間を止めることはできないが、「ファウスト」の「瞬間よ止まれ、おまえはいかにも美しい」を多くの人が記憶し、「苛々して何かを見ようとしても、その術をみつける手掛かりはつかめない」(「出てこい」)と嘆くのだ。 「文化」を支える仕組み  「文化」は瞬間を止めることはできないが、その瞬間を切り取ることができる。切り取られた瞬間は未来につながり、大きな影響を街に与える。  80年代静岡市でも多くの文化人の交流が盛んだった。作家小川国夫氏を中心に詩人大畑専氏、歌人高嶋健一氏、俳人野呂春眠氏らが静岡市立中央公民館(現在のアイセル21)で若い人たちを指導した。謡曲という未知の古典世界について、小川氏はわかりやすいことばで熱心に話してくれた。その講座に数多くの若者が詰め掛け、その講義録は82年に角川書店から「新天の花淵の声」として刊行された。  先日、静岡市の文化・クリエイティブ産業振興センター1階ギャラリーを訪れた。残念ながら、人影はなく閑散としていた。多分、作品そのものが身近なものでなく、説明する人もいなかった。「文化・クリエイティブ産業」とは「デザイン、出版、アート等の分野における創造的活動から生ずる文化的影響により市の文化の向上に資する産業」と定義されている。産業として「文化」を育てなければ、「文化」そのものが廃れていくのだろう。  ただ「文化」は簡単に理解できない。晩年の小川氏は小説の合間に、「小川漫画」という奇妙な漫画を描いていた。その漫画を手に、「富士山は富士山です。世界遺産なんて冠は富士山には似合わない」と話してから、山部赤人の長歌「天地のわかれし時ゆ 神さびて」を最後まで口ずさんだ。「世界遺産」というわかりやすい冠ではなく、日本人ならば、万葉の歌抜きに富士山は語ってはならないのだ。そのようなことをはっきりと言える文化人は少なくなった。小川氏も亡くなって10年が過ぎた。「文化」を廃れさせてはならない。 ※タイトル写真は小川国夫氏の圧倒的な迫力を持つ「漫画」。その楽しい1枚の絵が語り掛けるものは非常に多い。

ニュースの真相

川勝VS田辺3 静岡市長選での戦い方

77歳天野氏の出馬、70歳川勝知事が称賛  静岡市長選(4月7日投票)に難波喬司副知事(62)擁立に動いた天野進吾県議(77)が立候補表明、田辺信宏市長(57)と戦うことになった。びっくりしたのは、何よりも20歳も違う年齢差だ。昔、77歳は喜寿と呼ばれる長寿を祝う年齢だった(いまもそうかもしれないがー)。  江戸270年の平和時代の礎を築き、75歳(数え年、満73歳)の長寿を全うした家康公が「目は霞(かすみ)耳は蝉鳴りは歯は落ちて雪をいただく年の暮れかな」(「校合雑記」四)という狂歌をつくり、晩年の感慨を読んだのは遠い昔か。ベストセラー小説「終わった人」(64歳の男性が主人公)につづく、「すぐ死ぬんだから」(いずれも内館牧子著)は元気いっぱいの78歳女性が主人公だ。  「よく決断された」。川勝平太静岡県知事(70)は、30年前に旧静岡市長だった天野氏の出馬を絶賛した。知事が天野氏を支援する構図がはっきり見える。  川勝知事が肝入りする「健康寿命の延伸」を目的とした「社会健康医学大学院大学構想」の人生区分では、77歳を「初老」、知事の70歳を「働き盛り」としているから、天野氏出馬は、まさに静岡県の「健康寿命」モデルにぴったりと考えたのだろう。ことし1月1日現在で、静岡市の天野氏と同じ77歳人口は9085人、田辺氏の57歳人口は8593人でこちらも天野氏が圧倒。静岡市には寝たきりの77歳はいないだろう(多分?)。  もし、天野氏が市長就任すれば、県庁所在地市長の最高齢(現在は佐賀市長の76歳)となり、全国から大注目を集めるのは間違いない。  「60、70鼻たれ小僧おとこ盛りは百から百から」(平櫛田中)。年齢ではとうていかなわない田辺氏はどのように巻き返すことができるか。 静岡市の課題は若い女性の流出  当然、選挙戦はそれぞれの年齢や健康を競うものではない。静岡市の未来を決める政策を競い、その政策実現に期待、投票するのが選挙である。  昨年9月、日本銀行の黒田東彦総裁(74歳)が静岡市を訪れ、「人口が全国に比べて高い率で減少し、特に若者や女性が首都圏に流出している」と分析、まさにその若い女性の人口減少が静岡市の最大の課題である。  「静岡市、推計人口70万割れ 政令市で初か」(2017年4月7日日経新聞)。各紙一斉に静岡市の人口が70万を割り69万9421人と大々的に伝えた。全国に20ある政令指定都市で70万人を切ったのは静岡市だけだから、一大事、市民に衝撃を与えた。静岡市は東京・有楽町に移住相談窓口をつくり、学生の新幹線助成を行うが、残念ながら、人口減少を止められない。  静岡市人口は30歳を境に、男女の違いがはっきりとする。30歳超はほぼ平均して男女の人数は同じだが、30歳以下の若い世代になると、各年齢の女性数が男性よりも2百人から4百人も少ないのだ。つまり、黒田総裁の分析通り、若い女性が首都圏などに流出してしまっている。  静岡市は、若い女性たちが住みたい街になっていない? 解決策は「女性活躍」と「コンパクトシティ」  黒田総裁の課題分析に対して、当然、日銀は処方箋を考えているはずだ。日銀静岡支店を訪れ、竹内淳支店長に聞いた。竹内氏は人口減少を止める対策として、「女性活躍」と「コンパクトシティの重要性」の2つのキーワードで対処することを奨めた。  昨年3月、竹内氏は前任の甲府支店から身延線に揺られて静岡へ赴任した。身延線の山並みの景色から、富士市から静岡市へと入ると「光あふれて都会を感じた」という。自転車で静岡市内を回ると、「非常ににぎわっていて活気ある街並み」と評価は高い。駅前から呉服町通りの歩行者天国は歩きやすく、週末ごとのイベントに若い家族連れなども詰め掛ける様子も魅力的。それならば、若い女性にも気に入られるはずだが?  何かが足りないのだろう。  「にぎわいのあるエリアとその影響を受けているエリアのギャップの問題」と分析。たとえば、空き店舗や空き家がそのままになっているエリアが中心部にも広く分布し、その所有者らと街づくりのデベロッパーなどと橋渡しし、開発の妨げになる規制緩和を含めて手助けする役割を行政が担い、コンパクトシティ創設につなげるのが解決策に近づくようだ。  にぎわっている中心繁華街をどのように拡大していくか。そこに交通弱者となる高齢者や若い女性の生活する場所をもたらすことができるのかなど、田辺市政も推進してきたが、なかなか効果は見られない。  竹内氏提供の資料に、平均賃金の男女格差を示す統計調査で静岡市は全国ワースト2位だ。「給料の高い女性向きのビジネスが地域の好循環を生んでいく」というが、東京並みの女性の給料を支払う企業を増やすにはどうするか。  いずれにしても、静岡市長はどのような政策を示すことができるかだ。 人口70万超を死守できるか  人口70万の政令市というブランドは極めて重要だ。2017年4月に70万割れと大騒ぎしたが、人口を知る統計数字は推計人口だけでなく、住民基本台帳(世帯ごとに住民票を基に作成した台帳)がある。  こちらの数字では「70万1937人」(2月1日現在)。かろうじて70万を維持している。住民基本台帳は1月1日住所で個人住民税の課税対象や選挙人名簿となるから、個々人には重要な届けである。ただ、住民票を家族の元に置いたまま、東京の学校に進学していたり、あるいは逆に東京から単身で静岡に赴任、住民票はそのまま東京に置いてあったり、個々人の事情で住民票の移動なしで転出入している場合も多いから、住民基本台帳の数字が正確に人口に反映されていないのは確かだ。  人口について議論するとき、国勢調査による推計人口と住民基本台帳人口の2つがあり、両方とも決して間違った数字ではない。国勢調査による数字は各戸を調査員が回って確認するから、信頼性が高いと言われるが、外国人や夜間に働く人たちなど国勢調査員を避ける場合も多々ある。  国会での統計不正にかかわる審議を見ていて、統計数字はひとつの重要な指標だが、正確性を欠くのはやむを得ない場合もある。  静岡市人口は現在「70万1937人」。この数字は70万を割っていないから非常に響きがよい。ただし、何もしなければ今年中に70万を割るのは確実だ。 70万割ったら、政令市返上を!  静岡市のピーク人口は1990年の73万9300人(人口推計)。当時の旧静岡市長を天野氏が務めている。静岡県の人生区分では、平均寿命を超える88歳以上を「長老」としているが、さすが静岡市でもその年齢になるとぐっと少なくなる。亡くなる人も多く、それが減少の一番の理由だ。  ところで、静岡市は、高齢の家康が過ごした”隠居の場所”で、若者ではなくお年寄りの街のイメージが強い。それは大間違いである。  家康は将軍職を2代秀忠に譲ったあと、駿府(静岡市)に移り、オランダ、英国との通商条約を締結する外交、金座・銀座など金融財政の実権を握り、江戸と二元政治を行った。家康は駿府に隠居したわけではない。当時の江戸人口15万人、駿府は10万人超、現在発掘が行われている駿府城天守閣は江戸城の規模を上回り、駿府は江戸、京都、大坂と並ぶ日本の大都市だった。  政令市の指定要件は法律上では「50万以上」と書かれているが、実際は「大都市性の面において大阪、横浜など既存の指定都市とそん色がないこと」を求められている。「70万を割るようなことがあれば、政令市を返上する」。両候補には、そんな覚悟を示す政策を示してほしい。70歳知事が支援する77歳天野氏は、全国から若い女性を呼び込み「77万都市」となる奇抜な公約を打ち出すに違いない。それに対して現職の田辺氏は守りではなく、びっくりするくらいの積極策で対抗してほしい。駿府城の家康公も若い女性が大好きだったという記録があるから、たくさんの若い女性が定住したい街づくりを2人の公約としてほしい。 ※タイトル写真は、田辺氏の七間町に設けた後援会事務所。1987年に天野氏が市長に就任しているから、「起点としての80年代」展も何か意味深である。

ニュースの真相

新聞記者「正義」の話をしよう

朝日記者の「書かずに死ねるか」  朝日新聞政治部記者野上祐氏の「書かずに死ねるか 難治がんの記者がそれでも伝えたいこと」(朝日新聞出版)にはうんざりするほど「記者」あるいは「政治記者」の表記が登場する。亡くなるまで「記者」であり続けようとする筆者の思いなのだろう。だからか、「記者」としての過去の業績も自慢げに語っている。  『世のありように「ひっかき傷」をつけることができたと今も誇りに思う「調査報道」が沼津時代に二つある』。野上氏は20年前の支局時代の”手柄”をそう書いた。  『一つは、ある市長選の取材を通じて、改正公職選挙法の「抜け穴」に迫ったものだ。候補者の中に、ほかの選挙で陣営から違反者を出した男性がいた。市長選への立候補は合法だが、グレーな印象はぬぐえない。なぜこうした立候補を許す抜け穴ができたのか。法改正に関わった総務省や当時の担当閣僚の証言を積み重ねると、こうした候補者が現れるのを誰も想定していなかった実態が明らかになった。  男性の当選を受け、自民党の森喜朗幹事長(当時、後に首相)、民主党の羽田孜幹事長(元首相)がともに「釈然としない」と述べた。抜け穴対策は一時、国政の課題と位置づけられた。  この件で恐ろしいのは、過去に同じような立候補例が1件あったことだ。だが、その地元の記者が反応せず、それきりに。すべては「おかしい」と素朴に感じる目玉の働きだ』  ずいぶんあいまいで具体性に欠ける説明である。これでは何のことか、読者には理解できないだろう。  1999年12月に行われた三島市長選挙の資料を引っ張りだしてきた。 20年前、三島市長選は全国ニュースに  野上氏が書く「抜け穴」とは、改正公職選挙法で拡大連座制(対象が秘書や運動員などに拡大)の適用を受けた候補の制裁が限定していることを指す。連座制の制裁範囲は「立候補禁止の期間は連座に関わった対象の選挙に限定している」  98年4月から三島市では特別養護老人ホーム開設にからむ汚職事件で逮捕者が続き、関与の疑いの濃かった市長が病気入院、辞職した。これに伴う市長選に、96年の衆院選に出馬、落選した寺院住職、小池正臣氏が立候補した。県議から国政選挙に打って出たが、伊豆半島の郡部での運動員が買収で逮捕、小池氏は拡大連座制適用となり、5年間衆院静岡7区への出馬を禁止された。  小池氏の三島市長選へ立候補を「抜け穴」として、「法の精神に反する」と野上氏は厳しく批判した。地方版で何度も報道した記事を全国版にリライトして、夕刊1面トップ記事に仕立て上げたときにはびっくりした。この報道に対する反響は大きく、翌日には読売が追い掛け、朝日、毎日は社説でも「立法の精神に違反する」など批判、極めつけは写真週刊誌「フォーカス」が朝日の夕刊を持って取材に訪れ、「連座制失格でも市長選に出馬する坊主の厚顔」という記事を掲載、地方の市長選挙が一躍、全国レベルの話題になった。批判の渦の中で”連座制失格”候補は、大差で敗れるだろうとだれもが予測した。  反小池候補の最有力としてO県議が出馬すると、朝日は「連座制適用の小池氏を選ぶ良識を疑う」という記事を連日のように載せ、O氏支持を鮮明にした。前市長の後任と目された元市幹部、共産党女性候補による4人の激しい選挙戦が展開された。汚職の逮捕者が続いた街の再生ではなく、”連座制失格”候補への批判が選挙戦のテーマになった。  朝日の推すO氏優勢のまま終盤戦を迎えたが、候補者アンケートが地方紙に掲載されると形勢は一挙に逆転した。中心街のビル跡地活用について、O氏は「跡地活用は考えていない」と素っ気なく回答。圧倒的にO氏優勢が伝えられていたが、あまりの無責任さに市民の怒りを招いた。奇跡的な大逆転で、小池氏が3候補を大差で破り見事当選を果たした。  野上氏は翌日朝刊で『三島市長選「連座」元県議当選』(1面)、『連座再出馬 批判は埋没 制度の改善図る時期』(社会面)と全国版で報道、街の再生ではなく「連座制再出馬」批判をつらぬいた。  野上氏が著書に書いたように、総務省(当時は自治省)は本当に「このような候補を想定していなかった」のか? 朝日の「良識」と社会「常識」の違い  95年愛媛県議選で拡大連座制を適用され失職した元県議が98年4月に市議選に出馬して当選した。野上氏が「地元の記者は反応せず、それきりに。」と書いた過去の事例である。  当時の自治省選挙課を取材すると、「本人の罪と違い、拡大連座制による制裁を限定的にして、連座制を免れる方法を設けているのは憲法違反に問われないためにも必要」と説明した。最高裁の判断を含めて自治省の見解は合理的だったが、なぜか、朝日は「このような候補を想定していなかった」と書いた。  「抜け穴対策は国政の課題」(野上氏)だったはずだが、2003年民主党の都築譲代議士は連座制を適用され失職、その3年後、愛知県一色町長選に当選したのをはじめ、同じような立候補は数多く続いた。なぜか、朝日は2006年の都築氏出馬を含めて”抜け穴”立候補について、大々的な報道は行わなかった。  三島市長選での大騒ぎはマスコミによる地方選挙戦への介入に見えた。そんな逆風の中、なぜ、小池氏が当選したのか野上氏は取材しなかった。 「圧力感じたようだ」記事の裏側  「圧力を感じたようだ」。3段見出しの大きな記事が2000年3月3日朝日新聞地方版に掲載された。  三島市長選の翌年、1999年11月、場外舟券売り場建設計画にからみ伊豆長岡町長が百万円収賄の疑いで逮捕された。町長は一貫して否認、町には「町長を支援する会」が設立され、町民の7割を超える1万人以上の署名が集まり、議会の町長不信任案は大差で否決されるなど異常な事態が起きていた。  2月の初公判で町長は「全く身に覚えがない」と争う姿勢を見せ、拘留は3カ月に及んでいた。読売新聞によると、3月2日の第2回公判で贈賄側の会社役員の妻が出廷して、検察側の尋問で「(町長逮捕後に)『証言を変えろ。変えないと損害賠償請求する』というようなことを言われたことはないか」と質問。妻は「証言を変えろとまでは言われていないが」と否定した上で、✖✖(わたし)から「電話で『(町長の妻が経営する)旅館が暮れのかき入れ時なのに客が減り、損害が出ている。賠償請求すると言っている』と言われた」など証言した。  この公判後、野上氏は妻ではなく、代理人弁護士を取材、「証人威迫にあたるほどではないが、圧力は感じたようだ」と証言を得た。それで、最初に書いた「圧力感じたようだ」という大見出しが出来上がった。  当然、野上氏は知らなかっただろうが、贈賄側会社役員と逮捕の1年以上前から交流があり、わたしは何度も妻やその息子(町職員)とも会っていた。「お父ちゃんは町長に現金など渡していない」と最初に言ったのは、米屋を営む、その妻だった。伊豆長岡町の旅館が得意先であり、わたしよりも旅館の内情に通じていた。5月には町長夫妻が仲人で、息子の結婚式も予定されていた。  極めつけは、贈賄側が町長の旅館を訪れ、現金百万円を渡したという警察、検察の特定した日にちについて、数年前の手帳を探してきて、「お父ちゃんはその日は京都のお寺の会合に行っていた。寺の坊さんに確認してくれれば分かる」とその妻が教えてくれた。わたしは京都にあるその寺に出向き、同じ証言を得た。  「このまま、お父ちゃんが出てこないと、3千万円の仕事がダメになる。ごめんなさい」。それが妻からの最後の電話だった。否認すれば拘留が続くのは、カルロス・ゴーン氏の場合でおなじみだ。”自白”さえすれば、保釈され、なおかつ、贈賄事件の被告人は執行猶予付きの”微罪”判決を得る。第2回公判直前に会社役員は保釈された。  その後、現金授受の日に会社役員と一緒にいたと証言した京都の住職、同じ会合にいた他の僧侶らも証言を簡単に変えてしまった。会社役員の妻同様に彼らの都合で証言を変えたことをわたしが批判する術はない。  考えてもみてほしい。なぜ、検察側はその妻に「証言を変えろと言われたことはないか」などという不思議な質問をわざわざ法廷でしたのか?わたしが京都へ行ったことを検察官は妻から聞いていたはずだ。多くのことを知っているわたしを排除しなければあとあと面倒になると考えたのだろう。わたしは地方新聞社のサラリーマン記者であり、裁判に名前が出たことで汚職取材を一切禁じられ、直後の3月異動で本社内勤となった。その後町長は自ら辞職、町の支援ムードも一気に潮を引くように消えていった。  元町長は最高裁まで争ったが、贈賄側の証言を覆すことはできなかった。最高裁で有罪判決を受けたあと、元町長から送られてきた裁判の全記録に、唯一の頼みが、京都の寺院住職らの証言だったと書かれていた。野上氏の『すべては「おかしい」と素朴に感じる目玉の働き』では事実を見通せたはずもない。 「できる記者」とは?  「書かずに死ねるか」は、「できる記者っていうのはね」ということばから始まる。社内の交流人事で営業から記者になった入社4、5年目のことだという。「大事な話を聞いても、目が動かない」のが「できる記者」と書く。  今回、「書かずに死ねるか」を読んでいて、野上氏にとって「できる記者」であることが最優先だったことがわかる。もし、たった百万円の贈収賄事件の真実がどこにあるのか野上氏が突き止めたとき、「書かずに死ねるか」どうかは知らないし、書いたとしても元町長の有罪がひっくり返るどうかもわらかない。ただわかるのは、政治家を含めてすべての取材先が求めているのは、都合のよい「媒体(新聞紙面)」であり、「できる記者」かどうかは関係ない。贈賄側の会社役員、その妻、京都の僧侶たちなど個々の都合で「事実」は変わっていく。野上氏が属していた政治部記者の世界も都合によって「事実」そのものが変わるだろう。歴史にさまざまな見方があるように、「事実」はひとつではない。  「書かずに死ねるか」を読んで、新聞記者の「正義」とは何かをあらためて考えるきっかけになった。  野上氏は2016年1月ステージⅣのすい臓がんが見つかり、2018年12月28日に亡くなった。行年46歳だった。心からご冥福をお祈りする。

お金の学校

美術品「継活」のススメ

32万円の浮世絵の価値は?  加島美術(東京・京橋)という画商の創設した日本美術継承協会主催の「美術品の無料相談会」が静岡市の駅ビルで開かれた。美術品を次世代へ継承していく「継活(けいかつ)」を提唱、美術品の売却、処分、査定、修復など美術品全般の相談を受けるのが協会の業務のようだ。各家庭に眠っている「お宝」を見てもらう良い機会で、多くの人が詰め掛けていた。  35年前、亡父が静岡伊勢丹(当時の田中屋伊勢丹)から購入した安藤広重の浮世絵「古歌六玉川」(天保14年頃)を鑑定してもらった。Richard Lane博士というアメリカ人の鑑定書、32万円の高額領収書が残っていたから、売却できるならば、半分の値段でもいいな、と期待は高まった。USBメモリの写真を見ていた担当者が「版画の周囲(縁の部分)を見たい」と言う。額に入って、マット(白い紙)で装飾してあるから、縁の部分に気づかなかった。説明では、そこに版元などの情報が刷られているという。  戻ってから、額を外してマット(白い紙)を取ってみると、縁の部分は見事に切除。言うなれば、オリジナル作品に傷を付けたことになる。結局、査定は限りなくゼロに近かった。32万円という値段は何だったのか。  当時の領収書に書かれた伊勢丹に電話した。美術担当者は「販売したときに品質について説明したはず。一度売却したものは、こちらで買い取りはしない」と説明。当然、担当者は鑑定書を基に「すばらしい作品」と説明したのかもしれない。結局、その言葉を信じて、購入を決めた亡父の責任であることは間違いないが、周囲が切り取られ価値はゼロに近いと説明されたら、購入などしなかっただろう。「品質の説明をした」と言うがー。  そもそも美術品の価値とは何だろうか? 20万円の版画の価値は?  20年以上前、ある仕事を手伝ったお礼に友人から藤田嗣治の木口木版画「小さな職人たち―ガラス屋」を贈られた。相談会の席に、その写真も持っていき鑑定してもらった。画廊HPなどで、「小さな職人」シリーズが20万円前後で売りに出されていた。ところが、いくら藤田が人気作家でも、実際に売却しようとすると、値段は売値の10分の1以下となってしまうようだ。新聞広告を出して、静岡駅ビルの一室を借り、専門の担当者派遣など多額の費用が掛かる。もし、作品を引き取って売却しようとしても”塩漬け”になる可能性さえあるから、10分の1以下は仕方ないかもしれない。  好きな美術品は、自宅のインテリアとして飾り、生活に潤いを与えてくれる。あるいは、好きな作家の作品を所有する満足感かもしれない。この作品もしまい放しになっているから、本当は大きな壁面を持つ人に飾ってもらったほうがいい。そのために「継活」という流通も良い手段だ。現在では一般参加のオークションなどさまざまな方法もある。  亡父の場合、浮世絵コレクターでもないから、将来は「お宝」になると信じて購入したのだろう。まさか、評価ゼロとは思っていない。「お宝」と考えるならば、美術品はあまりにリスクが大きいようだ。 バブル景気の頂点を彩った絵画  静岡市美術館で開催中の「起点としての80年代」に欠けている視点は、当時がバブル景気だったことだ。1982年1月熱海にMOA美術館、86年4月静岡県立美術館など美術館開館ブームが到来。80年代のバブル景気で世界中の美術品を買いあさった。MOAが10億円超でレオナルド・ダヴィンチの絵画購入というニュースが流れた(結局取りやめたようだ)。  バブル景気の頂点は1990年5月、大昭和製紙の斎藤了英氏が当時の史上最高額8250万ドル(約125億円)でゴッホ「医師ガシェの肖像」、同2位7810万ドル(約119億円)でルノワール「ムーラン・ド・ギャレット」を購入したときだ。「亡くなったら2枚の絵画を棺桶に入れてくれ」と言ったとか。物議をかもした話題だが、合計約245億円が斎藤氏の個人財産なのか不思議だった。もしそうならば、遺族は相続税を払うことなどできないだろうから、手放すしかなくなる。  2枚の絵画に比べて、あまり話題にならなかったが、91年斎藤氏は県立美術館にロダン「考える人」を寄贈、ロダン館に展示されている。こちらの値段は明らかにされなかった。  あまりに目立ったことが災いしたのか、斎藤氏は93年ゼネコン汚職に絡んだ宮城県知事へ1億円贈賄の疑いで逮捕、95年に執行猶予つき有罪判決。翌年80歳で亡くなった。バブルは崩壊していた。  亡くなる前、ゴッホ、ルノアールを県立美術館へ寄贈したいという話が流れ、取材をしたが、結局真偽のほどは分からぬまま話は消えた。  その後、ゴッホ、ルノアールとも売りに出され、斎藤氏の購入額を軽く上回る値段で海外の個人コレクターの所蔵となった。その個人コレクターの名前は伏せられている。斎藤氏は銀座のK画廊でアンパンを食べながら、好きな絵画に囲まれている時間が一番楽しいと言っていた。(写真はいずれも斎藤了英氏が関係者に配ったオレンジカード)  美術品の「価値」を決めるのは値段だ。国内では、富山県高岡市在住の伊勢彦信氏によるイセコレクションが有名。シャガール、ピカソ、中国陶磁器など所蔵品すべての評価で百億円超と言われる。  それに比べると、ゴッホ、ルノアールのたった2枚の245億円がいかに桁外れだったのか。バブル崩壊後も日本の個人金融資産は増え続け、現在、約1829兆円と膨大な額だ、1人当たり1600万円くらいか。株式、預貯金が大半を占める。美術品も金融資産に見合ったものをひそかに所有しているのだろう。日本人は亡くなったときが一番の金持ちと揶揄される。  ぜひ、美術品を死蔵せずに「継活」することをおススメする。静岡市でもオークション会が開かれ、どんな美術品があるのかみんなで楽しめれば、なおいいだろう。

取材ノート

静岡県立病院へ「患者」として批判

県立病院から「410円」請求の督促状  静岡県立総合病院機構からの請求「410円」が3月末に時効になる。5年前、突然「督促状」をもらい、期日までに指定銀行に振り込めという内容。この「督促状」をもらうまでの経緯を記して、田中一成院長宛に質問状を送付した。督促状を送ってきた東京の弁護士事務所へも連絡した。「期日までに支払わなければ、法的手段をとることがある」と記されていたが、その後「410円」について何も言ってきていない。病院ではどのように処理したのだろうか?  先日、コンビニで100円のコーヒーカップで150円のカフェオレを飲んだ62歳の男が窃盗の疑いで逮捕された。「50円」をごまかしただけだから、「一罰百戒」の見せしめの要素が強いのだろうが、「50円」でも逮捕されるならば、「410円」不払いは金額的に問題は大きい。病院からの督促状を受け取ったときの驚きが大きいから、現在まで、その書面をちゃんと保存している。ぜひ、病院には「法的手段をとる」ことを奨める。そうすれば、「410円」問題が明らかになるだろう。 検査ミスで田中院長が頭を下げる  2月8日に田中院長が県庁で記者会見、「糖尿病検査判定にミスがあった」と謝罪した。報道によると、調査中だが、実質的な影響はほぼなかったらしい。ただ、6年間にわたり人数が多かったとして検査部長を戒告、田中院長らを訓告処分したという。田中院長をはじめとした病院幹部らが頭を下げているニュースにやはり驚いた。実質的な影響がない病院内のミスを「ヒヤリハット」と呼ぶが、こんなことで病院のトップが頭を下げるのならば、毎日謝罪を繰り返さなければならないかもしれない。  10年ほど前、大阪で開かれた「日本臨床麻酔科学会」シンポジウムにパネラーとして出席、「これからは医療過誤が増えるのではなく、医療過誤訴訟が増えていく。麻酔科医の役割はますます重要になる」と発言をした。当時、司法制度改革で約2万人の弁護士を大幅に増やし、米国並みに弁護士の活躍する社会を目指そうとしていた。弁護士が増えれば、医療過誤訴訟が増えるのは、米国の訴訟事情を見ればわかるからだ。  2006年5月、浜松医大病院で手術を受けた88歳の女性が病院と医者を相手取って「7100万円」の損害賠償を請求する裁判があり、地裁浜松支部は医者の「説明義務違反」を認め、「110万円を支払え」という判決を出した。インフォームドコンセント(医者の十分な説明と患者の同意)についても、医療過誤訴訟が成り立つ。病院内で、患者が滑って転んでけがするなど、どんなことでも訴訟になる可能性が高い。  病院のトップが本当に頭を下げるのはどんなときだろうか? 県立病院による入院拒否の理由  2013年11月19日、母(88歳)の肺に水がたまっているので、県立総合病院呼吸器内科で診てもらった。母を連れて行った施設職員から「呼吸器内科では肺炎などの症状はなく、循環器科へ回された。診察結果は家族にしか話ができない」と連絡を受けた。「考えられる最善の治療をしてもらうよう医師に話してほしい」と求めたが、医師は母への治療、処方は全くせずに施設へ戻された。  翌日午後病院に出向き、M循環器内科医から「心臓が弱っていて、このまま行けばいずれ心臓は停止する。その場合、救命措置をとるかどうか」と聞かれた。「看取りに対して、心臓マッサージなどの救命措置は望まない」と答えたが、朝面会した母の調子はそれほど悪くは見えなかったので、M医師に処方を求めた。不在の母は再診となり、処方箋が出され、近くの薬局で利尿剤を購入した。  2日たっても利尿剤の効果がないので、看護師から点滴での薬剤投与ができる病院へ搬送すべきではないか、と提案された。わたしは即座に同意、県立総合病院へ連絡してもらった。M医師は「家族は救命措置を取らない」とのことで受け入れを拒否した。このため、22日夕方、静岡済生会病院へ救急搬送してもらい、点滴投与を受けると、母は回復、両側下肢の浮腫はなくなり、胸水も引き、30日に退院した。その後、母は老衰で90歳で亡くなるまで、心不全の症状を訴えることはなかった。 診療部と検査部の連絡体制に疑問  田中院長への質問は以下の通りである。  1、患者は症状の改善を求めて病院を受診したのに、治療を全く行なわないのは患者の良質の医療を受ける権利を損なう。治療を行わなかった理由は?  2、入院を求めたが、医師は家族に話したからと言って入院を拒否した。病院、医師はすべての患者を受け入れる義務がある。良質の医療を受ける権利が損なわれた理由は?  3、今回の督促状の内容(細菌培養同定検査)は呼吸器内科医から送られた診療情報提供書に記載はなく、わたしが循環器内科医に病状を聞いたときにも説明を受けていない。医師からの納得のいく説明と情報提供を受ける権利が損なわれた理由は?  母の症状はみるみる回復したため、入院拒否された県立総合病院に不満を持ったが、その時点で質問をする気はなかった。ところが、突然「督促状」を受け取った。それ以前に請求書を受け取ってもいない。どういうわけか、督促状だけが届いたのである。いくら「410円」でもびっくりする。それとともに、医師は即座に「心不全」と診断したのに、細菌培養同定検査をストップしないのはなぜか?診療部門の連絡が悪いのか?検査部へ連絡が届かないのか?多分、このような問題は日常茶飯に起きているのだろう。  院長は同じように頭を下げるのか? 院長ではなく医事課補佐の回答  田中院長宛に送った質問状は、院長ではなく、医事課長補佐(氏のみで名前はない)から回答が送られてきた。回答書には、19日は軽度だったので治療は行わなかった。20日にわたしの来訪に合わせて、利尿剤を処方したから、治療は行った。また入院拒否ではなく、施設の主治医(脳神経外科医)に任せたのだとある。  なぜ、この話を蒸し返しているのか?  「県民の健康寿命延伸」を目的に県立病院に社会健康医学大学院大学を設置するのが、静岡県の優先施策なのか疑問だからだ。静岡県に必要なのは、基礎医学に取り組む研究者ではなく、優秀な臨床医である。特に、県中部の医師不足は大きな問題である。臨床研究部長(循環器内科医)が川根本町で緑茶調査するほどに、県立病院では若手医師の多くに任せて大丈夫なのか。  当時の医事課補佐に取材したところ、「わたしは医師の言われた通りに書いたのであって、中身は関知していない。職務として問題はない」と言っていた。多分、このような回答では、臨床部門と検査部の連絡体制などこれからも大きな問題となるだろう。  県立病院では年間5百万円超の未払いがあるそうだ。わたしの「410円」は氷山の一角であり、本当に医師の資質を疑うような不満、医療コンフリクト(対立)の問題、医療過誤を招くヒヤリハットは起きていないのかチェックすべきではないか。そのような調査を行ったとき、最優先する施策が何かはっきりするはずだ。

現場へ行く

「文化が好き」ー静岡市長への批判?

清水経済人「文化じゃ飯が食えない」  2月10日日本経済新聞全国版に静岡市美術館の展覧会「起点としての80年代」のカラー5段広告が掲載された。ちょっと驚いて、当日昼頃、市美術館に出掛けた。日経の広告5段カラー面掲載料は約1200万円と非常に高額だ。入場料1100円だから、この広告を見て1万人以上が入館しなければ、採算は合わない計算になる。会場はぱらぱらとしていて、広告の効果はあまり感じられなかった。  「文化じゃ飯が食えない」。その言葉が頭に浮かんだ。もし、正規の広告料金を払って、それに見合う入場客を期待したとしたら、展覧会が赤字となったとき、担当者は責任を負わなければならないのか。展覧会の赤字で担当者の責任問題に発展することなどない。展覧会は「文化」であり、お金という尺度で計算しないようだ。  2月5日朝日新聞朝刊の記事。「田辺(信宏)市長は企業誘致に関心がない。歴史文化、教育文化と『文化』が好きだからね。それじゃ飯が食えない」と皮肉を込めた批判を、清水区の経済人が言ったようだ。難波喬司副知事の市長選不出馬会見の関連記事だが、「文化じゃ飯が食えない」批判が気になって、頭から離れなくなった。  展覧会チラシには「インスタレーション」「メディア・アート」「オルタナティブ・スペース」「メディウム」など難解なカタカナ英語が羅列され、ほとんどの作品が言葉通りの難解さをまとい、感動や共感も得ることができなかった。「文化で飯が食えない」かもしれないが、それでは「文化」とは何だろうか? 地下街のガス爆発事故の記憶  美術館を出て地下街を歩いていて、ああそうか、あの展覧会は時代を全く理解していないことに気づいた。静岡市にとって「起点としての80年代」が何かを考えずに、他からの借り物のような外国語で飾った芸術家たちの展覧会をやっても共感を得ることはできないからだ。  アインシュタインの有名な「相対性」理論。簡単に言えば、「相対性」とは主観的な時間で、つまらない学校の授業は退屈で時間は長いと感じる、一方、美しい絵画を恋人と見る時間はあっという間に過ぎる。「退屈」と「夢中」の時間の長さで「相対性」を説明した。「文化」も相対的なもので、感じ方はみな違うのだが、あまりに難解ならば苦痛を強いる長い時間と感じる。理解不能なカタカナ英語をやめて、やさしい言葉で説明することはもちろんだが、みな共通の「問題意識」を投げ掛ければ、多くの人は夢中になるはずだ。授業も教え方ひとつで変わってくる。  その問題意識が、静岡市にとっての「1980年の起点」だ。それは何だったのか?  1980年8月16日。静岡駅前地下街でガス爆発事故が起きた。15人死亡、223人重軽傷という大惨事。忘れているだろうが、歴史的な事件として記録されている。その現場となった付近は、どういうわけかシャッター通りになっていた。日曜日なのに人通りは非常に少なく、まるで40年近く前の記憶がその周辺に残っているようだ。真っ白なシャッター通りが「80代年への扉」だ。タイトル写真の白いシャッターはまさに「インスタレーション」作品そのものではないか?  美術館のすぐ近くに、「Starting points:Japanese of the ’80s」ではなく、「Shizuoka of the ’80s」という「80年代の扉」がある。あの日の煙やにおい、消防車、救急車のサイレン、爆発による道路に散らばったガラス破片など静岡の人たちの記憶に残っている。その2日前の14日には富士山で大落石があり、12人死亡、35人重軽傷の事故も起きていた。思い掛けない大惨事と「文化」を結んでいたものは何だったか?静岡の「80年代の扉」をみなが知っているのだから、美術館の「80年の文化」にはインパクトを感じないのだろう。 40年前の村上春樹の評価   1979年6月に第22回群像新人文学賞が発表された。受賞作は村上春樹「風の歌を聴け」。わたしにとっての80年代の始まりは、この作品からだった。審査員は丸谷才一、吉行淳之介、島尾敏雄、佐多稲子、佐々木基一。「何が書いてあったのか覚えていないが、おもしろかった、2度読んだ」という評が大勢を占めた。「ポップアート」みたいな印象であり、しゃれたTシャツの略画まで挿入されていたと老人たちはみな驚いたが、当時はまだ「文化」と見なされなかった。  芥川賞審査員の丸谷をはじめ、村上の処女作を無視した。長い間、日本の文壇では村上の存在を無視し続けたが、米国ニューヨーカー誌をはじめさまざまな国で翻訳され、高い評価を受け、ノーベル文学賞の有力な候補になった。当時の文学賞審査員の先生方はみな亡くなった。村上は彼らと違い、芥川賞もその他日本の文学賞も関係なかったが、いまや世界の注目を集める「文化」の中心人物となった。「文化」そのものが変わったのか。村上の文学は初めから同じで、何も変わっていないが、わたしたちは過去から続くすべての背景を知っている。それが「時代の文化」だ。 駿府公園に県立美術館?  もう1つの40年前の話だ。静岡県議会百年記念事業として県立美術館建設の計画が持ち上がった。静岡市は県都である駿府公園に建設するよう要望、静岡経済界の代表らが委員会をつくり、1980年7月駿府公園への建設が決まった。ところが、まず、駿府城天守台が発見され、すこし北側に建設地を移して建設することになった。  2年掛けて発掘調査を行ったところ、今度は戦国時代の庭園跡を発見、今川館跡の可能性が高くなった。とうとう県立美術館は現在地の静岡市谷田に変更された。県立美術館が建設されていたら、3年前から始まった天守台跡発掘などなかっただろう。  そして、「日本一大きな天守台」や「金箔瓦」が発見され、来年度5百万円の予算で天守台遺構をどのようにするのか検討していくことになった。当然、発掘した遺構をそのまま”フィールドミュージアム”として活用することはできない。風雨など自然的な影響を考えれば、最善の保存は埋め戻すしかない。当初の天守台再建計画を見直せば、4百年前の天守台を見学できる屋根つきの大型施設建設へ舵を切ることになる。莫大な予算が必要になる。  さて、どうするのか?  先日田辺市長と話す機会があったが、いくら「文化が好き」市長でも美術館開催の展覧会同様にすべてのことを承知しているはずもない。すべては職員からの情報(よい情報も悪い情報もある)を基に判断するしかない。市長ならば地下シャッター街をどのようにするか経済の問題ではなく、文化の問題と見ることもできる。駿府城跡地についても、同じことだが、最終的な判断は市民の代表、市長にゆだねられる。責任は非常に重い。  ただ、静岡県も静岡市も、40年前、駿府城公園に県立美術館を建設する計画を立てた事実を忘れている。川勝平太知事は、静岡市の歴史博物館計画に批判的だ。40年前、なぜ、駿府城公園に県立美術館をつくろうとしたのか、もう一度、整理していけば相互の役割が見える。そうあってほしい。  難しいカタカナ英語ではなく、わかりやすいことばで両者が話し合えば、40年後には、”共創”でできあがった立派な文化施設が海外からの観光客をはじめ多くの人に感動を与えるだろう。ただし、この問題はいま考えなければならない。

ニュースの真相

川勝VS田辺2「劇場型選挙」は不発に

難波副知事の市長選撤退  4日県庁で、難波喬司副知事が静岡市長選に「出馬しない」ことを宣言した。また川勝平太知事に辞表願を提出したが、知事は受け取らず、引き続き、難波氏は副知事として県政にあたることも明らかにした。当初の予想通り、会見内容は「市長選不出馬」と「副知事職の継続」の2点のみだったが、テレビ、新聞の取材陣は驚くほどに多く、また、翌日の新聞報道でも中日新聞の1面準トップ、社会面トップ、中面トップの破格の扱いをはじめ各社とも大きな紙面をさいて、このニュースを伝えた。  記者会見前に「予想に反して、副知事が出馬宣言すれば大きなニュースなる」と記者の一人が冗談めかして言った。1月25日中日新聞は朝刊準トップで「難波氏 事実上の出馬表明」と顔写真入りで大きく伝えた。前回の市長選でも、田辺氏の対立候補が川勝知事の出席した出版記念会の翌日、出馬表明している。自著の出版記念会後に難波氏は「近いうちに出るか出ないか決める」と述べただけだったが、発言や会の盛り上がりなどから中日記者は「出馬の意向」と受け止めた。その報道は支援団体らの期待を膨らませた。  どう考えても、情勢を正しく分析すれば、難波氏の出馬がいかに困難か予想できた。出馬を望む川勝知事、市民団体らの声がどんなに大きくても、ほとんどの政財界メンバーは田辺氏を推薦する側に回っていた。  選挙に不可欠な3要素をたとえた「3バン」の「ジバン(地盤=支援組織など)」「カンバン(看板=容姿、知名度など)」「カバン(鞄=選挙資金など)」を見ても、地元出身、小中高時代からの友人も多く、難波氏よりも5歳年下で見た目も若い田辺氏に軍配が上がる。すぐれた政策や資質ではなく、選挙では3バンが重要であり、何よりも現職の後援会組織は大きな強みである。 「静岡県型県都構想」が争点  「信条の『共創』で、みんなと課題解決することを訴える選挙戦にできるのであれば、立候補したいと思っていたが、劇場型の選挙に出馬するのは公務員としての私の信条に合わない」。また、「相手方を徹底的にたたく」劇場型選挙は「望ましくない」と述べた。すべての新聞が「劇場型選挙を望まない」と報道している。  「劇場型選挙」とは、2005年小泉純一郎首相が「郵政民営化」の賛成か反対かという単純明快なキャッチフレーズで国民の信を問うた衆院選挙で使われた。「小泉劇場」「刺客」などが新語、流行語となり、小泉氏率いる自民党圧勝の選挙戦略となった。  2014年の大阪府知事・市長選では「大阪都構想」、また東京都知事選で「原発反対か賛成か」で同じような「劇場型選挙」が戦略として使われている。  多分、難波氏はわかっていて「劇場型選挙」を使ったのだろうが、もし、難波氏が立候補していれば、川勝知事が繰り返し述べていた「静岡型県都構想」が選挙の争点になっていたのではないか。法律的には「県都構想」は難しいが、川勝知事の意向を受けて静岡県、静岡市が連携して相互に補完し取り組む新しい行政スタイルを「静岡型県都構想」として訴え、冷え切った静岡県との良好な関係を築くかどうかが選挙の争点になったはずだ。そうなれば、多くの市民は「静岡型県都構想」に期待しただろう。  ただ、いまのままでは単に「川勝VS田辺」は一種のけんかにしか見えない。何度か「川勝VS田辺」の応酬があったが、表面的に仲の悪いことは見えても、その応酬の中身がどちらが正しいのか、また、自分たちにどんな利益があるのか市民には見えないからだ。「静岡型県都構想」で、事業整理や行革などが進み、法人、個人の住民税、国保税、水道料金などが大幅に減少できるところまで提案しなければ、市民には「劇場型選挙」同様にちんぷんかんぷんで争点にはならないだろう。 虎視眈々と知事選狙う細野豪志氏  「知事と副知事はともに静岡市政批判を口にしてきた」(毎日)、「一連の騒動で知事と田辺氏の確執は修復しようがなくなった」(読売)など今回の出馬騒動で、県と静岡市との関係は完全に冷え切ったとの見方が大勢を占める。  また、難波副知事の慰留について「知事が自らの批判を回避したとの見方がある」(静岡)、「田辺氏の対抗馬を擁立できない上に『右腕』を失うことになり、自身の求心力の低下を招きかねない事態」(読売)と見られ、さらに「市長選で『不戦敗』になった後、過剰に市政批判を重ねれば県政に対する民意は離れかねない」(毎日)と厳しい指摘もあった。  そこで登場するのが細野豪志代議士である。自民二階派の特別会員となり、党入りを目指す動きが連日伝えられる。当然、自民県連、5区支部とも入党拒否要請を本部に申請しているが、細野氏の狙いは2021年7月の知事選だとすれば、全く問題ない。京都府出身の細野氏が静岡に降り立ち、三島地域を選んだのは、全国をマーケティングして「ここならば勝てる」と踏んだからであり、生まれたばかりの赤ちゃんともども選挙区を回り、20代だった細野氏は大学生ら若者を味方につけ、圧勝。その後の活躍はご存じの通りである。  いまは風見鶏として厳しい批判を受けているが、2021年10月の衆院選ではなく7月の知事選となれば、5区支部も関係なく、川勝知事の対抗馬に悩む県連も受け入れ、田辺氏は応援に回るだろう。そこまで計算して、細野氏は自民党入りを目指している可能性が高い。川勝知事が4選に出馬すれば、今回の騒動は大きな失点となるかもしれない。  「知事と市長ではうまくいかない県との間の懸案が難波さんのおかげでうまく解決できてきた。とどまってよかった」(朝日)と市幹部の談話を紹介、副知事が県と市との接点の役割を果たしている。「実務家公務員の技術力」(発売元・静岡新聞社、1800円+税)に「60代は、実務家公務員として積み上げた技術力が社会問題の解決のための重要資源となる」と書かれている。「リニア環境問題」など静岡県の将来に向けて最善の方向で解決する「技術力」を60代の難波副知事が発揮してくれることを大いに期待したい。 ※タイトル写真は中日新聞4日朝刊1面準トップです。