静岡の未来

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「中国の夢」を託された子供たち

習近平「中国の夢」をかなえる豆記者日本訪問  8月5日から15日まで、静岡県と友好提携を結ぶ中国浙江省の8歳から15歳までの子供たち(男子14人、女子26人)で構成する浙江電視台(China Blue)主催「中国豆記者日本訪問団」を迎えた。浙江省は人口5477万人、杭州市797万人で、静岡県368万人だから規模的には中国に遠く及ばない。14億人の中国全土をカバーする浙江電視台は中国では有数の視聴率を誇り、訪問団メンバーは富裕層の子弟から選抜したようだ。  超大国中国はアメリカに次いで、世界第2位のGDPだが、現在のところ国民1人当たりのGDPは日本の4分の1程度。そのGDPが逆転して、「中国が日本より豊かな国となる」のはいまから30年後と予想される。今回、訪れた子供たちは、「中国が世界を指導する国になる」という習近平主席の打ち出したスローガン「中国の夢」がかなえられる世代の中心層として成長を期待される。  8月5日夜に来日後、6日に広島市で開かれた平和祈念式典に出席、被曝者インタビュー、翌日は愛知県のトヨタ自動車を見学後、静岡県に入り、8日に川勝平太静岡県知事インタビュー、9日につくば市でノーベル物理学賞受賞者の小林誠氏インタビュー、再び、静岡県に戻り、富士山体験など盛りだくさんのスケジュールをこなした。ちょうどお盆の時期で、当初の人選通りには行かず、静岡県と茨城県との往復では交通渋滞も重なり、予定通りこなすのもひと苦労だった。15日お茶の郷ミュージアムで茶道体験を行い、静岡空港から帰国する予定だったが、大型台風10号の影響で上海便は欠航、金谷での茶道体験をキャンセル、急きょ成田空港から帰国した。  わたしがつきあったのは、12日駿府城公園紅葉山庭園茶室での「着物(浴衣)体験」、森育子さん、理世さん(2007年ミスユニバース優勝者)主宰のダンススタジオでのダンス交流、13日平山佐知子参院議員インタビュー、国会見学の2日間だった。  浙江電視台はプロデューサー、カメラマン、記者、アナウンサーの4人(平均年齢35歳前後と推定)を派遣、日本各地で要人にインタビューする豆記者の様子を取材、編集して中国へ送っていた。最も重要なことは、その4人が子供たち40人の指導的な教育係を兼ねていたことだ。  「中国の夢」という国家の目的に貢献できる子供たちを教育する?たった2日間であったが、「自由」が当たり前の日本の子供たちと「中国の夢」を背負った子供たちとの違いを強く感じることができた。 35年前、中国の貧しい状況  1985年上海、武漢経由で、湖南省にある沼津市の姉妹都市岳陽、毛沢東の生地、長沙などを訪問した。当時、日本人旅行客がよく訪れていた桂林からの漓江下りなども楽しんだ。上海の屋外トイレ事情(公園にぽこっと穴があるだけで建物も壁も何もない)に象徴されるように「貧しい国」の現実を行く先々で経験した。帰途、香港に立ち寄り、そこで食べた中華料理が本場の中国とは段違いにおいしい(日本人の舌に合う)ことを実感した。  2002年4月NPO法人「中国の眼科医療を支援する会」を立ち上げ、眼科医師たちとともにしばしば中国を訪れることになる。静岡県内をはじめ、長野、山梨、千葉など眼科医らの予定を調整、毎年中国側の要請にもとづいて、日本の眼科医療機器(中古)などを持参した上で、白内障手術などの医療ボランティアに取り組んだ。眼科医療機器を中国の病院に寄付するとともに、中国人眼科医師の日本での研修受け入れを支援してきた。  1985年訪問から比べると、中国の発展ぶりは目をみはるばかりだった。つまり、中国本土で食べる料理と香港との違いは縮まり、ホテルやトイレ事情なども急速に改善された。  2007年静岡県と浙江省友好締結25周年記念で、浙江大学医学部眼科医局との交流を行ったことで、眼科医療ボランティアの使命が終わったことを実感した。日本と中国の医療レベルがほぼ同じでこちらのボランティアを期待する声が聞かれなくなった。中国への強いあこがれを持った眼科医らも高齢となり、南京にある中日友好記念病院から度々招待を受けたが、現在韓国で起きている状況などが続き、訪問を断念した。 日本はなぜ、中国にあこがれるのか?  日本人の中国へのあこがれについては、徳川家康をまつる久能山東照宮(静岡市)などで容易に見ることができる。拝殿に向かって、正面には「司馬温公の甕割り」、左側に「瓢箪から駒」、右側に「三賢人の水の味比べ」の色彩彫刻が施されている。司馬温公は中国北宋時代の政治家、儒者。子供のとき遊んでいた友人が水甕に落ちた際、他の子供たちが何もできないでいるのに司馬温公は落ち着いて近くの石を投げて、甕を割って友人を助けた故事に由来。  「三賢人水の味比べ」は、岡倉天心「茶の本」などに登場する、北宋時代の寓話。人生の象徴・神仙境の水を味比べをする三賢人、実際家の孔子は「何の味もない」、釈迦は「苦い」、老子は「甘い」と言う。老子の「甘い」に孔子、釈迦は瓢箪の水をもう一度、飲ませるように頼んでいるようである。天心は孔子(中国)、釈迦(インド)、老子(日本)に託して文明の違いを端的にこの寓話で言い表したのだが、いずれにしても中国からの精神性を尊ぶ姿勢に変わりない。  1616年4月に亡くなった初代将軍家康をまつる東照宮は、約19カ月後に久能山の頂上付近に建立されている。本殿につながる、その最も重要な拝殿に中国からの故事にちなんだ彫刻を施した。中国へのあこがれはこのようなかたちでさまざまな日本の文化の中に息づき、中国の高い精神性がいまも日本の中に残っている。  天心は英文著書「東洋の理想」で「アジアはひとつ」を唱え、西洋人が精神面よりも物質面を重んじ、人生の目的よりも手段に関心があると考え、アジアは精神性では優れていても物質面で遅れ、植民地化され、屈辱を味わい、近代化が遅れたと分析する。アジアの語源は古代ギリシャ語の「日が昇る地方」であり、世界の中心にほど遠かった。アジアが中心となる理念を「東洋の理想」として天心は唱え、現在、習近平は「中国の夢」に託す。 ”教育係”の厳しい姿勢が目立つ  川勝知事インタビュー、森理世インタビュー、平山参院議員インタビューを見ていて、あらかじめ創られたシナリオに基づいて入念なリハーサルを行い、もし、少しでも齟齬があれば、すべて終わったあと、主役の子供たちだけがもう一度、質問シーンを繰り返していた。その中で4人の”教育係”の子供たちへの厳しい姿勢が目立った。シナリオの言い間違いは許されない。選抜された子供たちは、そうでなかった子供たちよりも優秀でなくてはならない。”教育係”の厳しさは、暗記教育が得意な、ひと昔前の日本の教師に似ていた。教育にも中国、日本には共通点が多いのだろう。  子供たちは”教育係”の期待に応えるのに必死だった。そのように教育されていくことで将来どうなるのか。多分、習近平「中国の夢」を実践するエリートに成長するのだろう。  昨年4月に米国ニュージャージ州の小学校で、ホームステイ先の母親と一緒に「THE GREAT DEBATE(偉大な討論)」という特別授業を見学した。8歳の息子ナサニエルら3人、彼らと対立する意見を持つ3人が分かれて討論する。どちらの主張を支持するのかは、討論が終わったあと、傍聴した他の生徒及び父兄らが投票する。何よりも驚いたのはテーマで、「自由のための戦い」となっていた。副題に「自由のための戦いに生じる死の危険性に価値はあるのか?」とあり、独立戦争の戦いで犠牲者が出たことの是非について相互の立場で議論した。ナサニエルらは「価値がある」賛成派、相手の3人は「価値がない」反対派だった。  まず、それぞれが意見を披露し、その後議論となり、最後に結論に持っていく。自分自身、8歳のとき、ナサニエルらのような議論をした経験もなく、わたしたち世代の日本人には不得意な分野であると実感した。  「ディベート」に代表されるアメリカの自主性を重んじる教育と日本の暗記教育、そして中国のエリート教育のどちらがいいのか全く判断はできない。「偉大なアメリカ」(トランプ)や「中国の夢」(習近平)といった国家を担う政治家は強い経済力こそが自立、繁栄のために必要と訴え、それに貢献できる人材育成を目指す。   2020年頃に中国の総人口が減少に転じ、人類史上最大という中国の不動産バブルは崩壊するという予測は最近、現実味を帯びている。経済的に強い国家の存続は政治家に託すとしても、どんなに貧しい時代になったとしても高い精神性を持ち続けられる教育が求められる。 ※タイトル写真は、浙江省豆記者団に川勝知事があいさつ。子供たちの手の位置に注目してほしい。手の置き方まで指示されていたようだ

静岡の未来

21日は投票日、「徳川家康」は有効か無効か?

静岡選挙区4候補はぽっちゃり系  参院選(投票日21日)が真っ最中である。選挙候補掲示ポスターを見ると、2つのことに気が付いた。4候補者すべてがぽっちゃり系でちょっと太めであること、もう一つは徳川宗家19代徳川家広さん(54)が他候補よりもひときわにこやかな笑顔で、見る人に安心感を与えることだ。徳川家の”お坊ちゃま”とか”若殿”とか呼ばれる家広さんの人柄がにじみでる写真をうまく使ったようだ。  全国に4つある2人区で、唯一、野党の同士討ちとなり、これだけ注目を集めている選挙区は他にはないだろう。5月28日、立憲民主から家広さんが出馬表明をしたため、静岡選挙区の構図は一遍に様変わりした。当初は現職の自民牧野京夫さん(60)、国民民主榛葉賀津也さん(52)の”指定席”と思われていたものが、一挙に混迷の度合いを増した。知名度抜群の徳川宗家19代が名乗りをあげたのだから、牧野、榛葉の両氏も安穏としていられる状態ではなくなった。  安定した自民票を考えれば、牧野さんが当確であり、残り1議席を榛葉さん、家広さんが激しく争うという見方を新聞、雑誌などはした。当初、家広さん人気に疑問符もあったが、短期間のうちに一挙に浸透した。「徳川」という名前がいかに強いパワーを持っているかだ。その結果、関係者は家広さんが断然、有利と見ていたが、直近では互角あるいは榛葉さんが頭ひとつ抜けたと予想している。しかし、投票日まで1週間以上あるから、無党派層の間で家広さん人気はさらに増すのかもしれない。(各党間で家康の関ヶ原の戦いを彷彿させる「権謀術数」策が繰り広げられている噂を聞いた)  「徳川家康」。天下統一した日本の歴史上に不滅の存在である武将、政治家、実力者の名前はあまりにも大きく、静岡県では親しみはひときわ大きい。当然、家広さんは、偉大なご先祖さまの存在を十分に生かして選挙戦に臨んでいる。しかし、疑問がひとつある。  有権者は、投票用紙に「徳川家康」と書いてしまわないだろうか? 「徳川家康」と投票用紙に書いてしまう?  太閤秀吉人気の関西では、家康は極端に嫌われている。大坂の陣後に、関西ではやったという落首に「憎むべし 木から落ちたる猿の子(秀頼)を食って狸(家康)が腹つづみ打つ」。関西では家康を「陰険」「腹黒」「狡猾」な「狸おやじ」と呼んだ。家康の生まれ故郷愛知の出身で、義理と人情という男の世界を描いた小説「人生劇場」の作者尾崎士郎は家康をテーマに随筆「いやな男」を書いている。尾崎は、方広寺大仏殿の鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」の文字があったことに難癖をつけて大仏の開眼供養を中止させた裏切者として許せなかったようだ。  ところ変わればで、関西から静岡に移れば、だれもが家康を深く尊敬する。不遇な人質時代の竹千代、天下を取ったあと、駿府城を築城した大御所の物語に親しんでいるからだろう。江戸時代270年の平和の礎を築いた「徳川家康」は1607年に駿府に移り、1616年駿府城で亡くなり、久能山東照宮に祀られた。静岡での家康人気は不動の地位にある。だから、家広さんも選挙区に「静岡県」を選んだのだろう。しかし、それだけに、有権者が誤って「徳川家康」と投票用紙に書く可能性を否定できない。  投票所に行ってから、あまり知られていない「徳川家広」ではなく、誰もが知る「徳川家康」と書いてしまうお調子者、つい、うっかりと最後のところで間違ってしまう者など理由はいくらでもあるが、「徳川家康」票は静岡県内の開票所すべてで必ず見つかるだろう。この場合、有効票ではなく、疑問票に分類されてしまう。  「徳川」とだけ書けば、指し示す候補は家広さんしかいないから有効票となるだろう。しかし、「徳川家康」まで書いてしまえば、家広さんを示しているとまで言えなくなる。  1万円札ならば半分残っていれば、5千円に替えてもらえる。三分の二あれば1万円と交換だ。「徳川家康」4文字のうち、3文字は同じなのだから、「四分の三(75%)票」としてみなすのが合理的だが、公職選挙法の案分票にそのような規定はない。そのまま1票として認めるのか、全く別人なのだから無効票となってしまうかのどちらかだ。  静岡県選挙管理委員会事務局に問い合わせたが、ずいぶん長い間、待たされた。 「答えは出ません」が回答だった  「答えは出ません」。それが静岡県選挙管理委員会事務局の回答だった。  えっ。それではどうするのか。静岡県選挙管理委員会が「統一見解」をつくらなければ、静岡県内の各自治体は困るだろう。まてよ、自治体ではなく、「統一見解」をつくるのは国の役割なのかもしれない。それで、総務省選挙課に問い合わせた。  「統一見解はありません。また、これから統一見解をつくることもありません。疑問票を判断するのは開票所管理者です」。総務省の回答も同じだった。いっそのこと、四分の三(75%)票とすれば、いいのではないか。しかし、そのような規定がないのだから、有効票か無効票のどちらかに開票所責任者が決めることになる。今回選挙で開票所管理者の責任は重大である。  開票所には各陣営から立会人が行き、疑問票があればチェックする。もし、「徳川家康」とあれば、家広さんの立会人は有効票と主張するだろうし、他の候補の陣営では別人なのだから無効票と主張するに違いない。これでは開票所で大混乱が起きる恐れはないのか?  そうは言っても、総務省、静岡県が「統一見解」を出せば、それはそれで双方から批判が出る可能性を否定できない。非常に難しい問題だ。いつまでたっても「答えが出ない」はずだ。  投票結果が僅差だった場合、「徳川家康」問題は浮上するかもしれない。家広さんにしろ、他の候補にしろ、そのような問題が起きないよう静岡県選挙管理委員会では祈っているだろう。裁判所で判断することになっても、これは簡単ではない。 なぜ、立憲民主を選んだのか?  ところで、家康をまつる久能山東照宮は、家広さんが事前に何の連絡もなく、出馬表明したことに当惑している。それも自民ではなく、立憲民主から出馬したからだ。神社界は神道政治連盟を結成、伝統的に自民を支援している。現在、久能山東照宮の幹部神職が神道政治連盟静岡支部長を務めているのだから、表立って家広さんを支持することはないだろう。日光東照宮はじめ他県の東照宮も息をひそめている状態だ。  家康4百年祭は2015年4月17日(家康の命日)を中心に5日間、久能山東照宮で開かれた。御三家の関係者をはじめ、徳川慶喜家の子孫にあたる、徳川康久さんが出席した。当時、康久さんは靖国神社宮司だった。徳川家もいろいろな系統があり、それぞれの考え方は違うのだろうが、家広さんの決断を現在の当主、徳川宗家18代は支持したのだろうか。  15代将軍慶喜は静岡に謹慎したため、徳川宗家16代を田安家の家達が継いだ。家広さんの父、徳川宗家18代恒孝さんは会津藩主松平容保のひ孫に当たる。17代の養子に入って、宗家を継いでいる。  「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し」。駿府城公園に設置されている家康遺訓碑は恒孝さんの書である。明治維新後、関西での悪評さながらに家康の評価は地に落ちた。「国家安康」をはじめとした狸おやじ伝説は明治以降に創作されている。はるか遠い先祖は家康だが、家広さんは徳川家というよりも会津松平家(三代家光の義弟、保科正之が初代)につながる血筋であり、会津と言えば、幕末に薩長と激しく戦った。その血筋が自民ではなく、立憲民主を選ばせたのだろうか。恒孝さんも家広さんの決断を強く支持したのだという。  関ヶ原の戦い同様に、今回選挙戦に勝てる戦略を「狸おやじ」家康から学んだだろうか。明治維新の激動を経た将軍家末裔とされる徳川宗家が再び、政治の舞台で活躍できるかは21日に決まる。  「徳川家康」と書かれた疑問票が大量にあり、すべて無効票にされたとしても、他候補を圧倒するほどの得票で勝利することを祈るばかりである。

静岡の未来

静岡街中に温泉は見つかったのか?

「温泉掘削中」看板消える?  2017年10月静岡県環境審議会温泉部会は静岡市葵区の昭和通り沿いに建設される「ホテルオーレイン静岡(仮称)」棟の西側空き地(常磐町)での温泉掘削を許可した。この空き地はホテルの駐車場が建設される場所だ。その年暮れには掘削のための高い鉄塔のやぐらが設置され、「温泉掘削中」の大垂れ幕がお目見えした。静岡市郊外にはいくつかの日帰り温泉施設があるが、中心街に温泉施設はない。JR静岡駅から北西に約650メートルの場所での温泉ボーリングがスタート、道行く人たちは「温泉掘削中」という大垂れ幕に大きな関心を寄せていた。  ところが、最近になって、「温泉掘削中」の大垂れ幕だけでなく、掘削のための鉄塔やぐらなどすべてが撤去、元通りの更地になっていた。この空き地を見ると、ついこの間まで大掛かりな掘削が行われていたとは思えないほどの静けさだ。まさか、「温泉」は見つからずに、ボーリングは中止されたのか。  温泉掘削には多額の費用が掛かるが、最近の温泉探査は進んでいるから事前に多くのことが分かっていただろう。と言っても、静岡市の街中は温泉未発見地域だから、かなり深い地層を掘削した場合、固い岩盤など何らかの理由でボーリングがとん挫することもあるだろう。  温泉法では、水温25度以上の地下水あるいは総硫黄など19成分のいずれかを一定量以上含む地下水を「温泉」と定義している。掘削工事で温泉を確認すると、揚湯試験とともに温泉分析を通常は行っている。  そのあと温泉をくみ上げるための動力装置許可、可燃性天然ガスが出ているかどうかの確認、もし可燃性天然ガスの発生があれば、そのガスを分離するためのガスセパレーター設置許可などを経て、温泉をくみ上げるための採取許可が出される。さらに公衆向け施設となると保健所による温泉法、公衆浴場法などの細部にわたる厳しい指導が入り、ようやく温泉利用許可が出される。  静岡県担当課によれば、温泉が発見されれば、温泉分析などを行い、正式に温泉と認めてもらうのがふつうだが、ホテルオーレからは何らの申請は出されていないという。  やはり、大掛かりなやぐらを設置してボーリングしたが、温泉は見つからなかったのか? ”温泉”工事は一時ストップに  藤枝市にあるホテルオーレ本社に聞いたが、温泉についてははっきりとしたことを教えてくれなかった。ただ当初2020年2月末オープン予定だったが、オープンが半年近く遅れることになったと話してくれた。今回の温泉ボーリングは期待外れに終わり、もう一度挑戦するために、オープンが遅れるのだろうか?  もう一度、現地に出向いた。更地にさまざまな重機が入れられ、いろいろな工事に入っていた。駐車場棟建設のための準備らしい。恐る恐る「温泉」について聞くと、その中の一人が「温泉は見つかりました」との明るい返事をしてくれた。25度以上の地下水だったらしいから、”温泉”に間違いない。しかし、温泉分析など温泉に関わる作業は一時ストップして、150台以上を収容する駐車場建設を行い、それが終わってからあらためて揚湯試験、温泉分析を行い、静岡県に晴れて”温泉”と認めてもらう段取りらしい。  安倍川伏流水による豊かで冷たい地下水で静岡市のサウナは評判が高く、首都圏等から「サウナー」と呼ばれる熱心な愛好家らが”聖地”静岡市を訪れている。効能の高い温泉とともにサウナ、水風呂に期待は高まる。  ところで、ホテルオーレイン静岡は地上14階307室の客室を備え、14階屋上に天然温泉を楽しむ静岡市では最大級のホテルとなる。隣の駐車場からホテル屋上まで温泉をくみ上げるパイプ設置などこれからが本番となり、それで工事に遅れが出るのだろう。その工事現場を見ながら昭和通りを歩いていくと、別のホテル工事現場にぶつかった。  看板に「東横イン オープン予定」とある。東横イン本社に聞くと、ことし12月開業を目指して建設真っ最中だという。こちらは14階建て、客室数155室という。その現場からホテルオーレイン静岡をのぞむと、その向かいに三交イン静岡(177室)が見えた。さらに七間町通りを越えて進むと、昭和通り沿いにホテルオーク(人宿町)が昨年3月にオープンしたばかり。こちらの客室数は64室。驚くなかれ、すぐ近くの昭和町にことし3月アパホテル(88室)が既存ホテルを買収、リニューアルオープンした。 昭和通りは「ビジネスホテル街」に  いつの間にか、昭和通りにビジネスホテル建設ラッシュが起きていた。ホテルオーレイン静岡が開業すれば、約900室ものベッドを提供する「昭和通りビジネスホテル街」がお目見えする。  従来から静岡市の宿泊施設不足が嘆かれていた。  ある審議会で、グランシップ館長が「大きな学会や国際会議などを誘致しようとしても、静岡市には十分な宿泊施設がないからと断られてしまう」事例を紹介した。5年ほど前、わたし自身も知人の医科大学教授主宰によるグランシップでの大きな学会開催のお手伝いをしたところ、やはり、宿泊施設確保が問題となった。参加者は歓迎パーティを終えたあと、新幹線で首都圏に戻り、翌日学会発表で来静するなどてんやわんやだった。静岡市を観光などで売り出そうとしている市長らは、観光施設整備より宿泊施設の充実が必要なことを承知しているのか疑問に思った。  さて、今回のビジネスホテル建設ラッシュは業界の側が静岡市の宿泊施設不足に狙いをつけたのだろう。にわかに起きた”ビジネスホテル戦争”の主人公とも言えるホテルオーレ。ここから屋上の天然温泉を売り物に静岡市の魅力を売り込んでくれるだろう。日本人ほど温泉、裸のつきあいが好きな民族はいない。景気の先行きに暗雲が漂うが、東京オリンピック開催の2020年、屋上温泉のあるビジネスホテルがお目見えすると、青葉シンボルロード、青葉おでん街に近い”静岡ビジネスホテル街”はフル回転するはずだ。屋上温泉からの景色をいまから楽しみにしてほしい。

静岡の未来

天野氏の猛追かわす?「嵐の船出」だ!

「市民の2人に1人が批判的」  「天野氏の猛追かわす」は、静岡市長選で田辺信宏氏勝利に対する中日新聞の見出し。「嵐の船出」は川勝平太静岡県知事が記者らに話したことばで、各紙が使っている。  当選後、田辺市長は静岡県庁を訪れ、川勝知事に非公開で6分間だけ面会した。新聞報道によると、「選挙中、知事に仲良くしてほしいという声をたくさんいただいた。今日しかないと思い、知事に会いに来た」「これまでのことをノーサイドにして未来志向で県といい関係をつくりたい」という田辺市長の思いだったが、川勝知事は「(不仲を)チャラにしたいなら、市民がつきつけた批判を謙虚に受け止め、話し合うことが大事」「市民の2人に1人が田辺氏に批判的で『嵐の船出』だ。市民が立ち上がればリコールもありうる」など厳しい姿勢を見せた。知事はこれまで批判した田辺氏の施策について、田辺氏が何らかの対応を見せる用意もなく単なる”表敬訪問”のつもりで県庁を訪れたことに大いに不満だったようだ。  選挙結果で言えば、田辺氏13万8454票に対して、天野進吾氏10万7407票、林克氏3万3322票。2人の対立候補の得票を足せば、14万票余で田辺氏を上回り、知事の言う2人に1人は田辺氏に批判的ということになる。  しかし、天野氏には3万票余の大差をつけている。これで、なぜ、天野氏”猛追”との見出しがついたのか? 静岡市長選、全国で最も遅い”当確”  7日投票の終わったあと、全国放送で選挙特番が始まった。投票終了後の午後8時に番組が始まると、浜松市の鈴木康友氏をはじめ全国の知事選、政令指定都市の市長選でほとんどの当確が打たれた。残ったのは、保守分裂で総務省官僚同士の一騎打ちの激しい選挙戦となった島根県知事選と静岡市長選のみだった。  午後9時50分前には島根県知事選の当確が打たれた。  残ったのは、静岡市長選のみになった。静岡市長選は保守分裂でもなく、自民推薦、連合支援をはじめ各種団体の支援を受け、それも現職2期目の田辺氏優勢は動かないから、何の問題もなく、ふつうに午後8時過ぎに田辺氏の当確が打たれると予想された。ところが、田辺氏の当確が出たのは、午後10時20分頃だった。激しい選挙戦の展開された島根県知事選ならば理解できるが、田辺氏当確がなぜ、全国で最も遅い時間となったのか?天野氏との差は3万票だったから、少なくとも島根県知事選よりも早く当確が打たれて問題なかったはずだ。保守王国島根を分裂させた県知事選よりも、さらに30分、全国で最も遅い時間の当確は何を意味するのか?  中日新聞の静岡市長選特集で、田辺氏の選対幹部が「葵、駿河区で勝つのは当たり前、清水区で(新人2人の合計票より)1%でも多くの票を取らないと、次の4年に支障をきたす」と発言した。そのくらいの自信があるのもうなづけたが、その結果はどうだったのか?  全国で最も遅い当確と清水区の得票数の持つ意味は大きい。 天野氏”猛追”は単なる幻想だが…  清水区の田辺氏得票は4万5019票、天野氏4万1802票、林氏1万2260票、天野、林合計票5万4062票。つまり、1%多いどころか、20%、約1万票以上も少なくなっている。「次の4年に支障をきたす」どころか、これは大変な話かもしれない。  葵区で天野氏の2倍近く、駿河区で1・5倍近くの得票を田辺氏は得ているのだから、終わってみれば、天野氏”猛追”は単なる幻想に近いのだろう。つまり、各社の記者は、七間町に新たに設けた大きな選挙事務所をはじめ、各種団体による万全の支援体制で田辺氏がのぞんでいた割に、得票が伸びず、力強さに欠けたことで、”当確”を打つのを躊躇したのだろう。  午後10時開票が始まり、約20分も過ぎて、ようやく予想通りの田辺氏の勝利を確信でき、各報道機関担当者たちは”当確”を打った。  記者たちを疑心暗鬼にさせたのは、川勝知事の存在が大きかったのかもしれない。 知事は一線を越えてしまった  7日各社朝刊では、選挙戦最終日になって川勝知事が市街地で天野氏の応援演説のためにマイクを握り、天野氏支援を鮮明にしたことを紹介した。知事は自治体首長の選挙とは一切関わらないと何回も明言してきただけに、メディアもびっくりしただろう。「田辺氏の政治手腕をことごとく否定してきた知事が自ら定めた一線を越え、行き着くところまで行った印象だ。関係修復は容易でない」(中日新聞・広田和也記者)。田辺氏はこの記事を読まなかったのか。  静岡新聞は『「ノーサイド」の説明 ほご』との見出し。記事本文には「ほご」は使われていないから、読者は「ほご」を「保護」と勘違いしたかもしれない。非常にわかりにくい見出しである。「ほご(反故)」は「ないものとする」の意味で使ったのだろうが、「ノーサイド」は知事がよく使う「チャラにする」と同じで、「帳消しにする」。この点、田辺氏は当選後、「これまでのことをノーサイドにして未来志向で…」と発言、こちらは知事と同じ意味で使っている。このあたりはラグビー好きの稲門会同士といったところ、お互いに理解し合える関係にあるのだが…。  新聞見出し同様に川勝知事の行動は分かりにくかった。天野氏が市長選に勝利する見込みは非常に薄いのは分かっていて、応援演説で「市長特別補佐官」に副知事派遣などのリップサービス、これでは、冷静沈着な政治家ではなく、感情にまかせた発言、ただ単に田辺氏を嫌っていることを明らかにしたにすぎない。(知事に比べて話が上手ではなく、ナルシスト的なイメージが強いのが原因かもしれない。よい参謀がいないのだろう) 当確は遅れたが、投票率は低かった  今回の投票率は葵区49・18%、駿河区46・08%、清水区50・62%、全体では有権者58万4837人に対して、28万5142人、48・76%。約30分前に”当確”が打たれ、激しい選挙戦が展開された島根県知事選は62・04%だったから、いかに静岡市長選が低調だったか推して知るべしである。  「川勝VS田辺」シリーズを何度か、このニュースサイトで紹介している。たとえば、「”歴史博物館”建設は棚上げを!」をご覧いただきたい。それぞれの好き嫌いは別に、静岡市施策に対する課題、問題は多い。当然、田辺市政だけでなく、川勝県政に対しても批判すべきところは多いのかもしれないが、静岡市政のほうが目立っている。  投票率の低いのは、争点が何なのか、判断材料となる「情報」が非常に少ないことだ。川勝知事は田辺市政を批判するのであれば、もっと丁寧に判断材料を市民に提供すべきだったかもしれない。  国交副大臣の「忖度」発言で「下関北九州道路」への関心は全国的に高まったが、それほどには静岡市、静岡県の地域問題をほとんどの市民、県民は理解していない。  昨年アメリカのニュージャージー州、ワシントン州、サンフランシスコ州を旅して、それぞれの地方新聞を読むと、全国の問題ではなく、自分たちの住む地域の問題に焦点を当て、本当に細かいところまで紹介していた。ところが、日本の新聞はすべてが中央の問題に目がいき、地域の問題はほんの少ししか取り扱っていない。また、地域の問題もほとんどは行政の発表記事が多いようだ。  川勝知事のいう通り二重行政の問題は、静岡市の場合、さまざまなところに見られる。大きな争点がないのではなく、大きな争点が具体的に何であるか見せれば、投票率は上がるだろう。  「投票へ行くと、どう変わる?」。静岡県選挙管理委員会はクリアシートを配布していたが、その中身をちゃんと説明、関心を持たせるにはどうしたらいいかだ。

静岡の未来

IWC脱退 「食と文化」の未来

イルカを食べる静岡人  静岡駅構内の魚店に、この時季になると、たくさんの「イルカ」肉が店頭に並べられる。値段はクジラに比べると、非常に安く、赤身の部分は100g189円、脂肪と皮の部分は100g89円。しばらく見ていたが、赤黒いイルカ肉に手を出す若い人たちはだれもいなかった。  ゴボウ、人参、生姜、ネギを入れて作るイルカの味噌煮込みや「タレ」と呼ばれる切り身のみりん干しを好む人が過去には数多くいた。イルカ肉を食べる習慣は伊豆半島から静岡市周辺であり、いまも続いている。しかし、飲食店などで提供するところはなく、すべて家庭料理であり、県外の人たちにはほとんど知られていない。  伊豆半島で盛んだったイルカ追い込み漁は、公式には「鯨類追込網漁」(イルカは小型鯨類に分類される)。2004年を最後に、静岡ではイルカ追い込み漁は行われていない。店頭に並べられたイルカ肉は岩手県のものだった。   ところが、昨年9月伊東漁協は10月からのイルカ捕獲を申請、静岡県知事が許可。漁期は2月まで、漁獲枠は80頭。さあ、再び、静岡県でもイルカ捕獲を行うのか? 世界ジオパーク見送りの理由は?  静岡県知事の許可は出されたが、伊東でイルカ漁を行う様子は見えない。  県水産資源課に聞くと、伊東漁協の申請要件が整っていれば、許可を出すことになっているという。伊東漁協は伝統的なイルカ追い込み漁を次世代につないでいきたい意向を持っているようだが、それは簡単なことではない。  イルカ追い込み漁を行うのは静岡県と和歌山県のみ。和歌山県太地町のイルカ追い込み漁は海外の環境団体からの厳しい批判を浴びてきた。2010年アカデミー賞映画「コーヴ(入り江)」は、入り江を真っ赤に染める残酷なイルカ漁をスパイ映画もどきで暴露し、イルカ漁批判は大きなうねりとなった。  もし、伊東でイルカ漁が再開されれば、太地同様に世界中の環境保護団体が妨害のために伊東に集結するかもしれない。だから伊東漁協は申請はしているが、太地同様の軋轢を望んではいないのだろう。  2015年伊豆半島の世界ジオパークをユネスコに申請した際、イルカ漁を伊豆半島で行っていたことを理由に認可を見送られた。当時の伊東市長は2004年以来イルカ漁を行っていないし、ユネスコの意向に沿う発言をした。3年を経て、昨年4月ユネスコはようやく伊豆半島を世界ジオパークに認定。当然、ジオパークを売り込む最新の観光ガイドブックにイルカ料理は入っていない。  そんなこともあって、ますますイルカ漁には手が出せなくなっている。10年ひと昔というが、15年を経過、さらにイルカ漁は遠い昔になっていくだろう。 「海豚」は本当の豚ほどおいしくない  「鯨の竜田揚げ」。商業捕鯨が禁止される1987年以前に学校給食に登場した。わたしたちには貴重な肉だったが、いまの子どもたちは固くておいしくないと言うだろう。イルカのほうは「海豚」と漢字で書くが、給食で鯨のように使われたことはないし、鯨に比べて値段が非常に安いのは、くせのある臭いのせいなのだろう。海豚は本当の豚のようにおいしくはない。  映画「コーヴ」を見たあと、太地を訪ねたところ、鯨の街として宣伝していたが、イルカ料理は見なかった。そのときもらった「くじらのお店」というチラシには「1位 くじらは刺身」「2位 ミンクくじらの鮮烈な赤色は食欲そそる」「3位 懐かしの味、竜田揚げ」となっていた。厳しい批判にさらされてもイルカ追い込み漁を続けているのだから、なぜ、イルカ料理専門店がないのか不思議に感じた。  食文化というが、もしかしたら、イルカ料理は「和食」の一つではないのかもしれない。美食家だった北大路魯山人の全著作を読み返しても鯨、海豚料理はひとつとして出てこない。  イルカは日本人の「食文化」ではないのかもしれない。 食料危機時代のたんぱく源だった  クジラの持続的利用を訴えていた政府の漁業交渉官だった小松正之氏の「クジラは食べていい!」(宝島新書、2000年4月)をもう一度読み返した。序章「日本の市場から魚が消えてしまう!」(クジラ過剰保護が生んだ漁業者の嘆き)、第1章「食料危機を救えるのはクジラだ」(このままでは魚がいなくなる!、「捕鯨禁止」が生態系を破壊する!)。読んでいてわかったのはクジラ、イルカをおいしいとは書いていない。戦後の飢えた子供たちに鯨は必要であり、縄文時代から伊豆半島のたんぱく源だったイルカ、それぞれは「食料危機の時代」に活躍する食料であり、飽食の現代では不要になっている。  映画「コーヴ」では、魚が市場からいなくなった原因は「日本人が捕り過ぎであり、クジラの責任ではない」と批判した。和食ブームで寿司や刺身を好む西洋人が多くなっているから、ますます漁業資源は少なくなっているのだろう。また、海豚が本当においしいならば、グルメな西洋人たちはマグロ同様に食べるに決まっている。 IWC脱退は国際協調の表れ  日本はことし6月までにIWC(国際捕鯨委員会)を脱退、商業捕鯨を再開する。新聞各紙の論調は国際協調を重視しない日本の姿勢を厳しく批判し、共同通信社は「得るものは少なく、失うものが多い拙速な決定」として「今回の決定は、ガダルカナル島の戦闘で大敗し、余儀なくされた撤退を『転進』と呼んだ旧日本軍を思い起こさせる」と論評した。  ところが、調査捕鯨に対して調査船に対して、体当たりなどさまざまな攻撃を加えてきたシーシェパードなど国際的な環境団体は南極海の捕鯨が禁止され「大歓迎」と絶賛。今後はシーシェパードの危険な攻撃に日本の調査船がさらされないという1点を取っても、IWC脱退を評価したほうがいい。国際協調と言うならば、欧米人主体の環境団体による「大歓迎」の賛辞を素直に受け取るべきだ。  今回の商業捕鯨再開は、97年の「アイルランド提案」と内容は同じだ。「捕鯨推進国の200カイリ内での捕鯨を認め、南氷洋を含む公海での捕鯨を認めない」。当時、日本は反対していたが、20年を経て、反捕鯨国の1つ、アイルランド提案を受け入れることになった。それだけ追い詰められ、国際協調に転じたという見方をしたほうがいいのだろう。 海亀、鶴、雷鳥も食べていた  調査捕鯨で南氷洋のミンククジラなどを太地などの旧捕鯨地に送っていた。商業捕鯨再開で太地、宮城県鮎川などでは沿岸漁業としてミンククジラを捕獲することになる。それであれば、「鯨の街」として太地を売るのには絶好の機会であり、過去にあった新鮮でおいしい鯨の尾の身が飲食店で提供されるかもしれない。  ただ、捕鯨の歴史のない静岡では関係のない話である。  静岡ではつい最近までアカウミガメ(肉と卵)を食べてきたが、いまでは食べる対象として考えていない。駿府の徳川家康は正月の食卓に鶴を出して、客人に振舞っていた。沼津で亡くなった若山牧水は雷鳥を食べたと書いている。日本人はいまや鶴も雷鳥も海亀も食べることはない。  縄文時代から静岡人は海豚としてイルカを食べてきたが、近い将来、イルカ食も歴史の中でしか語られないものになるだろう。  映画「コーヴ」への反論映画を制作したニューヨーク在住の佐々木芽生さんの著作「おクジラさま ふたつの正義の物語」(集英社)で、給食当番が「いただきます」と元気よく言うと、子供たち全員で手を合わせて「いただきます」と唱和、食べ物への感謝の気持ちは日本人の自然観の表れだと書いた。日本では当たり前の食文化の風景を欧米人に理解してもらうことが、さらなる日本の魅力につながり、訪日外国人観光客が増えることにつながるのだろう。   ※タイトル写真は小笠原諸島近海のザトウクジラウオッチングでの写真です。商業捕鯨再開でもザトウクジラの捕獲はできない。

静岡の未来

2019年「平野富山×平櫛田中」展開催を!

国立劇場ロビーの「鏡獅子」彩色作者は?  先日、東京国立劇場で歌舞伎を見る機会があった。客席入場口前のロビーに2メートルもある大迫力の「鏡獅子」が展示され、外国人はじめ多くの人が足を止めて見入っていた。木彫家、平櫛田中(ひらぐしでんちゅう、1872~1979)と解説版にある。当時の大俳優6代目尾上菊五郎をモデルに戦中、20年間のブランクを経て1958年完成させた。80年以上のキャリアを誇り、さまざまな作品を残した田中が「他のすべての作品が滅してもこの作品だけは残る」と言った傑作中の傑作である。  この傑作には、ほとんどの人が知らない事実がある。  それは、「鏡獅子」の彩色を手掛けたのが、彩色木彫家、平野富山(ひらのふざん、1911~89)だったことだ。その事実を思い出すとともに、15年も間、胸の奥底にわだかまっていた苦い記憶がよみがえった。富山が亡くなって、来年6月でまる30年を迎える。  富山コレクションはどうなってしまったのか? 富山美術館を約束した旧清水市長  富山は旧清水市生まれ。15歳で地元の指物師に弟子入り、17歳で上京、池野哲仙に師事して彩色木彫を習った。田中が60歳ころから107歳で亡くなるまでの40年以上の間、富山が田中作品の彩色を手掛けている。田中作品に富山はなくてはならない存在だった。  15年前、東京・荒川区で富山の跡を継いだ長男、千里(せんり)氏(70)を取材した。千里氏によると、故郷を愛した富山の遺志に従い、自身の作品70点と生涯かけて収集したコレクション450点を旧清水市に寄贈した。当時の市長は「羽衣の松の近くに美術館を建設する」と約束した、という。しかし、いつになってもその約束は守られず、千里氏は何度も清水市へ足を運んだ。市長は変わり、清水市そのものが合併してなくなり、静岡市になってしまった。作品調査もしないまま、富山コレクションは旧清水市文化会館に収蔵されたまま、日の目を見ない状態が続いていた。 マリナートに展示コーナー開設  15年ぶりに千里氏に電話した。JR清水駅東口すぐ近くにできた新しい文化会館マリナートに富山作品の展示コーナーが開設され、現在、静岡市が新たに収蔵した富山若き日の作品、稚児雛人形が展示されているのだという。早速、清水のマリナートに足を運んだ。  「平野富山常設展示コーナー」として1階通路に開設されていた。雛人形のほか、寄贈された富山の作品2点(彩色木彫「神猿」、FRP「おもがえり」)が大きな陳列ガラスケースに並べられていた。小さな稚児雛は、ガラスのケース越しで何だか遠い存在のように感じた。雛人形は手に取ってみるくらいの距離がちょうどいいのだ。そんな違和感もあって、田中の作品はどうなっているのかを調べた。 田中に2つの美術館、富山コレクションは死蔵  何と、田中美術館は2つもあった。東京都小平市平櫛田中美術館、岡山県井原市田中美術館。小平市は田中が亡くなった場所、井原市は故郷である。さらに、10歳で養子に入った広島県福山市でも名誉市民、JR福山駅前には田中が製作したブロンズの大きな「五浦(いずら)釣人」像が建立されている。井原市の美術館にはガラスケースはなく、その代わりに「手を触れないでください」という注意書きがある、という。人形は触れることができなくても、すぐそばの距離で見るのがちょうどいいのだ。  2つも美術館が建設された田中、日本画軸物などの貴重なコレクションを始め、自身の作品も死蔵されたままの富山。2人の違いはどこにあるのか? 百歳時代を先取りした田中  「60、70はなたれ小僧、男盛りは百から百から」、「いまやらねばだれがやる わしがやらねばだれがやる」など、田中の名言録が知られている。田中の書も人気だ。特に、百歳を超える長命の田中だったからこそ「60、70はなたれ小僧、男盛りは百から百から」は説得力があった。いまや、「70、80はなたれ小僧」と呼んでもいいくらい、百歳が活躍する時代となった。「男盛り(女盛り?)……」の名言は百歳時代の象徴だ。  田中、富山とも刀剣、甲冑、陶芸などと同じ日本の伝統的な職人技に優れ、職人世界の「名人」と呼ばれた。しかし、田中の場合、伝統的、写実的な作風を重んじながら、岡倉天心に師事、横山大観らと同様に革新的な芸術精神を学んでいる。そこに違いがあるのだろうか。 富山没後30周年企画展を  そうか。たった2つの陳列ガラスケースコーナーで、お茶を濁してしまったのが間違っている。富山作品の全貌を見ていないから正確なことは言えないのだ。もっとたくさんの富山作品を見なければならない。ちょうど、来年は没後30年だ。富山の全貌を見せる没後30年記念展を静岡市美術館は企画すべきだ。どうせなら、東京国立博物館から「鏡獅子」を借りてきたほうがいい。小平市、井原市にある「鏡獅子」も並べ、富山独自の「鏡獅子」と競演させれば大迫力だ。「富山×田中」展に大きな期待が高まることは間違いない。  千里氏に話すと、大乗り気で、もし実現するならば「全面的に協力したい」と話してくれた。静岡市は「世界に存在感を示す」など大きな構想を口にしているのだから、「富山×田中」展くらいやらなければ、静岡市美術館の存在感はない。「いまやらねば だれがやる」。  「百歳時代」のいまこそ、絶好の企画だ。

静岡の未来

「MIRAI」の未来は? 厳しい5年後の運命

カリフォルニアのZEV規制  トヨタ自動車が静岡県に無償提供したFCV(水素自動車)「MIRAI」(約723万円)の無料貸出が10月からスタートした。さまざまなイベントで「未来の車」に試乗する子どもたちに、「MIRAI」は夢を与えるのだろうか?  ことし米国カリフォルニア州で非常に厳しいZEV(排出ガスゼロ車)規制がスタートした。5月から7月まで1カ月半、サンフランシスコやシリコンバレーに滞在、ナパバレーやサンフランシスコ市内の大渋滞を体験した。ZEVは大渋滞を避けることができる「規制適用の優先レーン」を利用できるだけに、時折優先レーンをすっ飛ばす高級車を見掛けた。ただ、街中でよく見掛けたのは、トヨタのハイブリッド車プリウスだった。  2018年規制では、自動車各社は販売する新車の16%をZEVにしなければならない。違反すると、1台当たり5千ドル(1ドル112円で56万円)という多額の罰金が課せられる。深刻なのは、ハイブリッド車は除外され、ZEVに含まれないことだ。カリフォルニア市場でもシェア1位のトヨタは義務付けられたZEVの台数が他社よりも格段に多いだけに「MIRAI」を一台でも多く売ることに必死なようだ。  ZEVはFCV(水素自動車)、EV(電気自動車)、PHV(プラグインハイブリッド車)/PHEV(プラグインハイブリッド電気自動車)の3種類のみ。  シリコンバレーで次世代カーの研究を行う三浦さんにZEVの事情を聞いた。三浦さんによると、ZEV規制は相当な効果があり、テスラ、リーフなどの数は日本の比ではないほど多く、充電スタンドもいつもいっぱいとのこと。ところが、水素自動車は非常に少ないという。アメリカ全土だけでなく、ヨーロッパ、中国でも同じで水素自動車は全く普及していないそうだ。 水素ステーション整備に5億円  その理由は、インフラ整備に問題が多いからだ。水素ステーション(圧縮水素供給スタンド)設立に4~5億円からの投資が必要で、年間約4千万円の運営費も掛かるから、簡単には手が出せない。現在、経営順調なガソリンスタンドでも年間売上は約2千万円というから、水素自動車がいくら普及したとしても水素ステーション経営は非常に難しい。  ドイツは2030年にガソリン車をゼロにする方針。世界中で環境規制はますます厳しくなるから、ガソリンエンジンの時代はいずれ終わりを迎えるだろう。中国だけでなくアメリカ、ヨーロッパでも次世代の車として“水素”には目をくれない。日本だけは事情が違うようだ。”水素”は国策であり、2020年東京オリンピックでも多くの水素自動車が走るようだ。  静岡県は、ことし5月から水素ステーション事業に最大1億円の補助金交付受付を行った。残念ながら、手を上げた事業者はひとりもいなかった。世界の趨勢から見て、水素自動車の未来は決して明るくない。  日本とカリフォルニア州はほぼ同じ面積を持ち、カリフォルニアの流行は5年遅れで日本の最新トレンドになっていく。とすると、5年後には電気自動車が大勢をしめ、水素自動車はお目に掛かれなくなっている可能性も高い。  ぜひ、いまのうちに「MIRAI」を体験しておくことをお奨めする。

静岡の未来

「がん5年生存率」調査  静岡市立病院の成績は?

初のがん5年生存率発表  9月12日、国立がん研究センター(東京)は全国にある「がん診療連携拠点病院」な ど250カ所の医療機関別「がん5年生存率」を初めて明らかにした。  2008年~20 09年に胃がん、大腸がん、肝臓がん、肺がん、乳がんの5つのがんと診断された患者の ステージ(進行度)に応じた5年生存率を全国の病院ごとに公表した。 それぞれの治療成績がひと目でわかるから、特にがんと診断された人たちは新聞記事に釘付けとなり、藁にすがる思いで“治る病院”を探したと聞いた。  病院にとって、衝撃的な調査結果だった。 手術数による病院ランキング  筆者は医療支援のNPO法人「Q(キュー)ネット」(静岡市)のメンバーととも に雑誌「静岡県の良い病院」を発刊した。地域の医療情報が極端に少なかっただけに多くの人に読んでもらえ、評判は高かったようだ。ただし、2号でストップ。ごめんなさい。 まさに、それが2008年、2009年であり、厚生労働省の資料を基に「手術数によ る病院ランキング」をつくり、それぞれの専門医を取材した。   当時、がんの部位別死亡者数は、静岡県の男性では、肺がん(22・6%)、胃がん(1 6・0%)、肝臓がん(12・4%)、大腸がん(11・1%)、女性は大腸がん(12・7%)、 胃がん(12・4%)、肺がん(12・4%)、乳がん(9・6%)などの順に多く、今回 の5年生存率が大きな意味を持つことがわかる。  肺がんの手術数で言えば、2008年のトップは聖隷三方原185、静岡がんセンター182、浜松医科大学附属130、県立総合122,聖隷浜松100、静岡市立81など の順だった。  2009年では、聖隷三方原、静岡がんセンターとも217、県立総合1 18、静岡市立97などと続いた。2008年の肝臓がんは静岡がんセンター192、県立総合120、2009年も同じ順番だった。 発表しなかった病院とは?  だからこそ、5年生存率はどうなったのか、非常に強い関心を持った。   静岡県のがん診療連携拠点は10病院。2008年には沼津市立が登録されていたが、 現在は沼津市立ではなく、その代わりに磐田市立が入り、同じ数の10病院ががん診療連携拠点だ。 調査書では、全国250病院の中で124番目に静岡がんセンター、131番目に磐田市立が成績を公表している。   何度も探したが、8病院しかない。10病院ないのだ。どこの病院がないのか?  「県立総合」と「静岡市立」が含まれていないことがわかった。だから、2つの病院の成績は分からない。それはなぜだ?  「がん診療連携拠点病院」を担当する静岡県疾病対策課に確認した。国立がん研究セン ターによる調査なので、県は関知していないとのこと。つまり、病院に直接聞いてみなければ 事情は分からない。 セカンドオピニオンの権利  患者の権利として「セカンドオピニオン」がある。  がん患者の場合、 「セカンドオピニオン」を求めるケースが非常に多い。ただし、「セカンドオピニオン」の意味を勘違いして、患者は「セカンドオピニオン」を受けた病院で、 そのまま治療受ける場合が多い。そのためか、 「セカンドオピニオン」を受ける病院も慎重 にならざるを得ないようだ。  静岡市立の医者から、がんと診断された患者は、静岡がんセンターに「セカンドオピニオン」を希望する場合がほとんどと聞いた。ただし、治療の見込みのない患者を静岡がん センターは「セカンドオピニオン」で引き受けない、ともこぼした。治療成績が落ちるのをいやがるそうだ。まあ、そういうこともあるかもしれない。ただし、確認はしていない。 また、いまも同じかどうかもわからない。病院側が治療成績が落ちることを嫌うことは理解できる。 さくらさんも乳がんだった?  今回調査で、静岡がんセンターのコメントには「地域の医療事情からⅣ期で治療開始する患者および高齢者で合併症を有して手術対象とならない患者の比率が高い」とあった。 このコメントでは、静岡市立の医者の話とは全く逆に、高難度のがん患者ばかりを引き 受けている、と言っているようだ。どちらが正しいのか、判断するのはなかなか難しい。静岡がんセンターの胃がん、 大腸がんの5年生存率は好成績である。  漫画「ちびまる子ちゃん」の作者で、旧清水市出身のさくらももこさんは2006年ころ、乳がんと診断されたそうだ。約10年たって、ことし(2018年)8月15日に53歳という若 さで亡くなった。さくらさんは5年生存率をちゃんとクリアしている。死亡原因は明らかにされていないので、乳がんの再発なのか、他の病気かはわからない。5年生存率という考えは、なかなか難しいものかもしれない。  いま、がんと診断された人たちは大きな不安を抱えているだろう。  2019年の正月もちゃんと生きていることを願うだろう。当然、5年生存は未来の話だ。  「静岡の未来」はちょっと暗い話で始まった。しかし、正確な情報を集めることが「未来」にとっていかに重要かを知ってほしいと考えた。正しい情報によって、どのように対応するか決めていくことができる。情報によって、あなたの未来が変わってしまうこともありうる。  …