「森は海の恋人」は本当か?

「流木」はシラス漁船の大敵

駿河湾に接する安倍川河口部

 タイトル写真は用宗漁港で、生シラスではなく流木の大漁を撮影したもの。安倍川河口部はほとんど閉鎖された状態だが、出水時には大量の土砂とともに流木が駿河湾に吐き出される。流木はシラス漁船の網に掛かり、シラス漁ならぬ”流木漁”となり、シラス網が使い物にならなくなるだけでなく漁船エンジンなどに影響を与え、大きな被害をもたらす迷惑な存在。だから、洪水時のあと、駿河湾に押し寄せた大量の流木に向かい用宗漁港の漁師らは総出で集める作業に汗をかかざるを得ない。

 大量の流木は駿河湾の生物たちには森の植物プランクトンを運ぶ「贈り物」かもしれない。ただ、安倍川上流部の森が荒廃して、「流木」の発生原因となっていることをご存じない方が多い。

 1944年、終戦の前の年から、唱歌「お山の杉の子」が日本全国で歌われた。戦時中に供用され、全国いたるところで丸裸になった山々の杉、檜の植林が奨励された。ことし70回目を迎え、新天皇、皇后両陛下の初仕事となった愛知県での全国植樹祭は、戦後の復興を目指す象徴的なイベントとして始まった。

 しかし、明治大正期から現在までの日本列島の環境変化を見ると、現在ほど森林が豊かな時代はない。山を植林で守ろうという考えを持つのは日本人だけだが、戦後の燃料革命、化学肥料などの多用によって、日々の生活は森林から得られる資材に頼ることなく、またパルプなどの原料は安い輸入材を使うことで豊かになった日本の森林は放置されるままになった。

 全国植樹祭は70回目を迎えたが、いまや林業は一部地域を除き、「業」として成り立たない。静岡県庁でも林業を担当する課は大幅に縮小され、森林整備課の役割は三保の松原の保全などであり、林業に対する役割は極わずかである。除間伐の行われない森林が安倍川上流にも数多く見られ、そこから発生する「流木」が駿河湾の漁業などに深刻な影響を与えている。

 用宗漁港のシラス漁師らは「森は海の恋人」などとは呼べない。

安倍川の「濁流」が流木を運ぶ

安倍川上流の大谷崩れ

 安倍川は静岡、山梨の県境の大谷嶺(標高1999・7メートル)に源を発する、流域面積567平方キロ、流路延長は51キロしかなく、大井川の168キロ、富士川の128キロなどに比べ非常に短い河川だが、日本屈指の急流河川であり、高低差約2キロの急こう配を一気に流れ下る。それだけに、洪水時の土砂供給は半端ではなく、森林荒廃による大量の流木も駿河湾に流れ込む仕組みだ。 

 1707年10月宝永地震が発生、安倍川源流部の「大谷崩れ」の大崩壊が始まった。その1カ月後に富士山は宝永噴火を起こした。記録に残る宝永地震は倒壊家屋6万棟、死者2万人以上とされ、大谷崩れによっても約5キロ下流の赤水の滝まで一気に流下し、大きな土砂災害をもたらした。約1億2千万トンもの土砂が崩壊したと推定される。

 フォッサマグナの西側である糸魚川静岡構造線に位置し、並行する2本の断層に挟まれ、2本の断層の横ずれ運動などで風化しやすく崩れやすい地層で水分を含みやすい。上流域の年間降水量は2800ミリを超える多雨地帯だから、日本三大崩れの一つに数えられる大谷崩れなどから大量の土砂が駿河湾に流れ込んでいる。

用宗漁港に打ち上げられた大きな流木

 安倍川上流に行けば、大谷崩れだけでなく、五色崩れ、大ナギ崩れ、ヨモギの頭崩れなどさまざまな崩壊地を見ることができる。大雨、特に豪雨があった時、安倍川上流の山々では耐え切れずに新たな崩れが起きて、川には濁流が押し寄せている。用宗漁港に打ち上げられた大きな流木によって安倍川の濁流の勢いを想像することができるだろう。

 洪水のたびに堆積と移動を繰り返しながら駿河湾に土砂を吐き出すことで静岡海岸、清水海岸、さらに「白砂青松」で知られる三保の松原を形成してきた。「濁流」は、このような自然の大きな恵みでもある。

サクラエビ不漁は「濁り」が原因?

日経新聞5月18日付朝刊

 静岡県は、サクラエビ不漁と富士川支流の濁りなどの因果関係を究明するために、南アルプスから駿河湾沿岸までの生態系の循環構造について研究する「森は海の恋人」研究会を近く、設立する。委員長に東海大学海洋学部の鈴木伸洋・元教授、顧問に秋道智弥山梨県富士山世界遺産センター所長(非常勤、人類学)のみ知事の直々の指名で決まっているが、他の委員らは未定のようだ。

 記者会見で川勝知事は「豊かな森林は駿河湾を豊穣な海にする。サクラエビの不漁の原因を探りたい」と述べたが、担当課に聞いても、何をどのようにやっていくのか全く決まっていない。「森は海の恋人」は1989年から気仙沼湾に注ぐ大川上流の地域で、カキ養殖の漁民らの広葉樹の植林活動に付けられた名前だ。広葉樹の多い森からの養分は鉄分が多く、それがプランクトンから始まる食物連鎖に重要で、カキは植物プランクトンを食べて育つから森林の働きは欠かせないという理由だった。

 三陸海岸には気仙沼湾だけでなく、釜石湾、大船渡湾、石巻湾など大小12もの湾、それぞれの湾に注ぎこむ河川があり、駿河湾との規模は全く違う。駿河湾の場合、東から狩野川、富士川、安倍川、大井川、天竜川の5大河川をはじめ多くの河川がある。

 「漁民は山を見ていた。海から真剣に山を見ていた。海から見える山は、漁民にとって命であった」(畠山重篤著「森は海の恋人」)。

 気仙沼湾の漁師にとって命の山は、安波山(標高239メートル)、川は二級河川大川(流路延長29キロ)のことである。駿河湾のサクラエビ漁師から見える山は浜石岳(標高707メートル)、二級河川由比川(4・8キロ)、和瀬川(2・5キロ)が駿河湾に流れ込んでいる。

 サクラエビ漁師たちは3千メートル級が連なる、はるかに遠い南アルプスの山々、川は大井川、富士川を思い描くのだろうか?

リニア工事とサクラエビ不漁の因果関係は?

 当初、川勝知事は「早川の上流でリニアの工事をしていて、濁りをなくすための凝集剤を使っている」ことを挙げ、リニア工事の「濁り」とサクラエビ不漁の因果関係を調べると発言していた。当然、JR東海は「排水処理は基準を守っている」など早川の濁りとリニア工事は無関係と明言した。

 そもそも「濁り」は地表の粘土性物質、土壌粒子、有機性物質、プランクトン、微生物などを含む駿河湾への森からの「栄養」成分を含んでいる。

 静岡河川事務所によると、洪水時の濁流によって河口から排出される土砂量を調べることはできないが、シミュレーション予測で、安倍川の場合、過去33年間で24万トン程度、大井川では過去15年間で40万トン程度が駿河湾に排出されたと推測する。洪水時に大量の土砂とともに多くの流木などが駿河湾に流れ込んでいる。早川支流の濁流などはるかに超える量である。

安倍川上流部の美しい森と川

 南アルプスから駿河湾までの生態系の循環構造を調べると言っても、これだけ大量の土砂、流木を駿河湾へ供給する安倍川を除外しては正確な調査にはならないだろう。「豊かな森林は駿河湾を豊穣にする」と言うが、気仙沼湾の養殖漁業と駿河湾深海に生息するサクラエビでは全く事情が違う。豊かな森林は大井川、安倍川にもあり、その恵みがどのようになっているのかの調査となれば、大規模で何年も掛けなければならない。駿河湾の濁流による土砂量調査が国交省でも簡単にできていないから、静岡県がどこまで「濁り」を調査できるのかハードルは非常に高いだろう。

 もしかしたら、川勝知事はその辺の事情をすべて承知した上で、担当課に「森は海の恋人」研究会設立を指示したのかもしれない。

 昨年8月の日経ビジネスで、リニア新幹線南アルプス工事の影響で川勝知事は「おとなしい静岡の人たちがリニアの線路に座り込みの反対をする」などと、リニア工事による影響の不透明さを訴えた。

 大井川、富士川などに比べて、非常に短い安倍川上流部でもさまざまな自然の現象が起こり、駿河湾に大きな影響を与えている。駿河湾は世界でもまれな豊穣な海と言われ続けてきたが、何らかの変動が起きているのかもしれない。川勝知事は、南アルプスで始まるリニア工事は東海道新幹線などとは比較できない大規模開発であり、思い掛けない災厄が起きる予兆をサクラエビ不漁に見たのかもしれない。川勝知事の呼び掛けに、記録的な不漁に見舞われるサクラエビ漁師たちはリニア工事に筵旗を持って抗議へ行くときがあるかもしれない。

 国の未来へ警告を発することは、優れた政治家が行うべき使命なのだろう。ただ、理屈に慣れている県庁職員たちは川勝知事の真意をはかるのに時間が掛かるだろう。

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