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「桶狭間」今川義元のイメージを変える3

「無能」という評判の今川義元  「東海の覇者 今川義元と駿府」と題する展覧会が静岡市文化財資料館、駿府城公園巽櫓の2会場で開催されている。そのチラシを見て驚いた。「これまで『公家かぶれ』『無能』などの烙印を押されてきた義元の評価を見直し、実像を明らかにしていく」とあったからだ。「公家かぶれ」はいいとしても「無能」という評判は初めて聞いた。能力、才能のない指揮官を「無能」と呼ぶが、「桶狭間」で敗れたために義元は「無能」というレッテルを貼られてしまったようだ。  「無能」義元のレッテルを変えるのには並大抵ではないだろう。「義元の実像を明らかにする」ともあるが、滅亡した今川氏の資料は非常に少ない。そんな状態の中で、簡単に評価を見直すことなどできるのか?  そんな疑問に答えてくれるかもしれないのが、積み上げられた「がれきの山」である。  静岡市は田辺信宏市長の肝いりで2016年度から「駿府城天守台発掘調査」をスタートした。徳川家康が築城した江戸城より大きな駿府城天守閣の姿を再現するために、まずは天守台の詳しい調査から始めた。3カ年の調査で、約61m×約68mという江戸城天守台よりも大きな天守台を確認、秀吉の武将、中村一氏の駿府城天守台(約33m×約37m)も発見され、金箔瓦なども出土している。  その成果を踏まえ、「4年目の本年度は今川期(室町時代)の遺構を発掘調査する」と静岡市歴史文化課は説明している。天守台の地下深くを掘っていけば、今川時代の遺構があることがわかっているのだろう。  ひとつ理解できないのは駿府城跡天守台の調査を目的で始めたのに、家康の駿府城と今川遺構はどんな関係を持つのか?そうか、「今川義元生誕五百年祭」に合わせて、義元のイメージを変える大発見が駿府城天守台の下にあることが歴史史料で分かっている?早速、静岡市歴史文化課に聞いてみた。  「天守台の下に今川の遺構があるのかどうかわからない。将来、天守台再建をする場合、地下に何があるのか確認しておいたほうがいいから調査する」。全くの拍子抜けである。  さあ、「がれきの山」の出番である。このがれきは今回の駿府城跡天守台発掘調査で出ている大量の石や残土である、それらを積み上げて「がれきの山」となった。「がれきの山」の下には、お宝が眠っている?  ほとんどすべての人が忘れてしまっているお宝である。 「がれきの山」の下に眠るお宝?  1982年12月10日、静岡県庁記者クラブで突然の記者会見が開かれた。静岡大学の小和田哲男助教授(当時)が「駿府城跡地発掘で今川館跡とみられる遺構が見つかった」と独自の会見にのぞんだのだ。  その3年前。静岡県議会百年記念事業として県立美術館構想が決定すると、静岡市は建築家丹下健三氏のユニークな設計だった旧駿府会館跡地(駿府城公園内)に建設するよう求めた。静岡県知事は静岡市長の求めに応じて、駿府城公園に県立美術館を建設することを決め、80年から発掘調査が開始された。現在、静岡市が発掘している同じ場所である。当然、慶長年間の天守台と本丸遺構石垣の一部が出現した。このため、県立美術館建設地を北側に変更した。そう、ここが「がれきの山」付近である。  記者会見で、小和田助教授は「今川氏の居館か、周辺にあった武家屋敷に付随する庭園とみられる。極めて貴重な遺構だ」などと述べ、「美術館建設はほかに求めるべきだ」など強く求めた。突然の小和田助教授の記者会見で県庁全体が大騒ぎとなってしまった。  斎藤忠・大正大学教授を委員長とする有識者による検討委員会が設置され、議論を重ねた。翌年の1月末に「今川氏館の中世庭園とみられる遺構を保存すべき」と結論が出され、静岡県立美術館の駿府城公園内建設を中止した。そのときに「さらに精密に調べれば今川氏とのかかわりははっきりとする」との意見がつけられたが、今川氏館跡の遺構等は埋められてしまい、その後調査を行われることはなかった。当時は県立美術館建設が優先され、今川館跡などに関心は持たれなかった。そもそも静岡市所有の駿府城公園であるから、静岡市が調査すべきだったのだが…。  現在、静岡市が発掘調査する駿府城天守台跡地の土砂及びがれきを積んでいる場所が当時の「今川館の中世庭園とみられる遺構」。と言うことは、もう一度「がれきの山」を発掘すれば、今川氏館跡の遺構が発見される。だから、「がれきの山」の下にお宝が眠っているとはっきりと言える。  40年前に大騒ぎになったお宝。そのお宝「今川氏関連の文化財資料」はすべて静岡県埋蔵文化財センター(静岡市清水区蒲原)に保管されている。 知事、静岡市長の感情的対立ではない  タイトル写真は静岡市役所から臨む静岡県庁、発掘調査の進む駿府城公園のブルーシートも見える。非常に近い距離であるが、川勝平太静岡県知事と田辺市長との溝は大きく深いようだ。  3期目の当選を決めたあと、田辺市長は静岡県庁を訪れ、川勝知事と面会した。その席で、知事は「市の歴史文化施設について、県に何の相談もなく進められている」と不満を述べたようだ。2021年秋以降にオープン予定の歴史文化施設を「いったん棚上げにすべき」という意見を知事は持っているからだ。その発言の理由書「駿府城跡地自体が博物館機能を有し、旧青葉小学校跡地に博物館を建設すれば二重投資になる」を静岡市に送っている。  その通りである。静岡市は天守台跡地発掘でさまざまな発見があったことを踏まえ、本年度から「フィールドミュージアム」として県民らに見てもらうために検討に入った。文化庁は雨ざらしの状態でのフィールドミュージアムなど容認するはずもない。石垣などすべてをドームなどで覆い、保存展示する観光施設には莫大な費用がかかる。当然、知事の言うように博物館施設も必要になるから二重投資となってしまう。ここは知事の言うようにいったん中止することも考えるべきだ。  単に口を出しているだけではない。知事はさまざまな知恵だけでなく、事業費などを用意する腹積もりを持ち、それだけに厳しい物言いで田辺市長へ注文をつけたと見るべきだ。  県と政令市は対等であり、権限は同格であるが、日本平夢テラス同様に連携して取り組むのであれば、県民は大いに支持するだろう。静岡市の財政規模では、家康の駿府城跡、義元の今川館跡など全国に誇る施設をつくるのには無理がある。  「今川氏館の中世庭園とみられる遺構」を発掘、発見したのは静岡県である。文化財資料もすべて静岡県施設に保管されている。静岡市担当課は市長と県知事の関係を慮ってか、県の保管する貴重な資料について何も言わない。  ある新聞社説は「知事と静岡市長 感情的対立 何も生まず」として川勝知事を批判した。多分、知事の腹積もりを承知していないから、そのような論調になったのだろう。本年度から、発掘調査を担当する県教委の文化財課を知事部局の文化局へ移管した。これを見ても、知事が駿府城公園整備を連携して取り組もうという姿勢が見える。  卓抜した文化教養人の川勝知事登場となれば、「無能」今川義元のレッテルを貼りかえることなどお茶の子さいさいだろう。田辺市長は知事の腹積もりをちゃんと承知した上で、さまざまな懸案事項について虚心坦懐に対話すべきである。

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「桶狭間」今川義元のイメージ変える2

2020年5月静岡駅に今川義元像設置へ  タイトル写真は名古屋市緑区桶狭間北3丁目の桶狭間古戦場公園に設置されている「織田信長と今川義元」像。2010年5月、桶狭間の戦いから450年を記念して、名古屋市在住の彫刻家が1年半掛けて制作した。武器の中では槍を一番信頼したとされる信長に対して、「海道一の弓取り」と称された義元の特徴をとらえている。愛知、岐阜県内で信長人気は圧倒的だが、「桶狭間の戦いで大軍を率いながら、少数の織田信長に討たれた公家風の大名」(静岡市の今川義元生誕五百年祭チラシ)などと言った義元を貶めるようなイメージはこの像には微塵もない。  静岡市は2020年5月、JR静岡駅北口広場の竹千代像隣に今川義元像を設置することを決めたらしい。今川義元生誕五百年祭推進委員会(事務局・静岡商工会議所内)の取り組みで、静岡市に聞くと「予算を含めて商工会議所が主体的にやっていることで詳細はわからない」と言う。「予算はいくら、大きさ、デザインは?」と聞いても、「把握していない」という回答。これで本当に大丈夫か? 評判の悪い家康像の二の舞に?  駿府城公園に設置されている鷹狩りを楽しむ家康像は多くの市民、観光客らに親しまれている。ところが、専門家らは家康はこのような姿で鷹狩りをした事実はないと厳しい指摘をする。作者(故人)と静岡市の担当者に何度も鷹狩りの際の装束を説明をしたのに、当時作者らは聞く耳を全く持たなかったというのだ。  先日江戸東京博物館へ行った折、地下鉄大江戸線両国駅からの道すがら、大きな家康像に出くわした。こちらも鷹狩りを楽しむ家康である。ところが、駿府城公園の家康像と趣きが違っていた。  駿府城公園の家康像はまるで戦場に向かうように鎧の上に陣羽織の姿だが、墨田区に設置された像は鷹狩りにふさわしい動きやすい姿で日よけの笠もしている。鷹狩りは体を鍛える意味もあったが、趣味の世界であり、”健康オタク”の家康にとってはオフのひとときだった。家康は身長159センチとされ、駿府城公園の虚構の像とは違い、墨田区の家康像のほうが当時の家康に近いようだ。  2009年3月静岡駅北口に没後4百年を記念して設置された家康像は実際とは違い、あまりに太っているためか評判は芳しくない。  関ヶ原の戦い後に、徳川家臣団に正式に迎えられた小笠原秀政氏は60歳当時の家康像を作成、家宝とした。その後、小笠原家は久能山東照宮に家康像を寄進している。その家康を見れば、背筋がしっかりとのび、非常にスマートである。亡くなったあと、神格化され東照神君、でっぷりとした家康像がおなじみであるが、これはわざわざ大人風に余裕のあるような描き方をしたにすぎない。  仙台市を訪れたとき、駅前や街中、そして青葉城周辺に数多くの伊達政宗像が設置されていた。そのどれもが非常にかっこういいのである。政宗は、家康と同じ身長約159センチであり、どちらかと言えば、男前ではなかったとされる。政宗像は仙台市民の誇りであり、さまざまな商品に政宗✖✖とつけられるほどの人気ぶりだ。イメージづくりがいかに大切であるか、今回の今川義元像設置では十分考慮すべきである。 市民に親しまれる像にしてほしい  JR静岡駅南口には印象派の画家ルノアールだったかの制作になる女性像がある。豊満な裸の像であるが、これは芸術である。とにかく、ルノアールというだれもが知っている名前が重要だ。だから、その女性がいくら街中で裸だからと言って、それがけしからんとか、フランス人かロシア人の女性かなどと考える必要はない。言うなれば、女性像を見て「美しい」と感じるのが芸術であって、その女性がどのような人物だったかなど考えることは全くない。  一方、静岡駅南口ではなく、静岡駅北口には家康像がある。これは没後4百年を記念して設置されたから、当然芸術作品ではない。芸術性はなくても、歴史上どのように魅力的な人物だったか、訪れる人たちがなるほどと納得できることが重要だ。残念ながら、わたしの知る限りでは、2009年設置の家康像の評判はよくない。  家康像の制作者がだれかなど訪れる人にとっては関係ない。家康は、天下を統一後、晩年10年間を駿府城で外交、財政金融に当たり、オランダ、イギリス、スペイン、朝鮮、琉球などと実りある関係を結ぶなど、江戸270年の平和を築いた初代将軍である。江戸転封前、駿府城主だった50歳前の家康像をイメージしたならば、久能山東照宮の肖像画同様に背筋が伸び、スマートであってほしかった。ところが、神格化された東照神君像を参考にしたのか、ほうれい線はくっきり、年取った姿でどうも肉の弛緩ぶりなどを強調してしまった。今川義元は「海道一の弓取り」が1つのイメージのようだが、家康も同じく「海道一の弓取り」と呼ばれていた。  広島市は「公共の場での彫像記念碑等の設置許可基準要綱」を定めている。人物像については「相当程度の芸術的価値があり、広く市民にとって美的価値を有するもの」としている。静岡市に聞いたが、そのような要綱を持っておらず、今回の場合、ほぼ静岡商工会議所にお任せであり、行政としての責任は感じられない。商工会議所の役割は、地域の企業や商店街などの振興であり、半永久的に残る人物像の知見が十分にあるとは思えない。少なくとも、桶狭間古戦場公園に設置された「信長、義元」像以上の義元像を望みたいが、本当に大丈夫なのか。  「桶狭間」で敗れた義元のイメージアップを目的に設置するのであれば、市民の意見をよく聞いた上で、県都の玄関口・静岡駅前にふさわしいものにすることが静岡市の責任である。

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「桶狭間」今川義元のイメージ変える1

「桶狭間」は無様な義元のイメージをつくった  1941年12月真珠湾攻撃に先立って、連合艦隊司令官山本五十六は「桶狭間とひよどり越えと川中島を合わせ行う」という有名なことばを残した。おそらく勝てぬと覚悟した戦いに臨む山本は、信長の奇襲攻撃による短期決戦の勝利とともにその「死生観」に学ぼうとしただろう。  永禄3年(1560年)5月、駿府の今川義元は2万5千の大軍を率いて尾張に侵入、18日織田信長との先端を開いた。織田の兵力は総数わずか4千余り、丸根、鷲津の砦は今川方の攻撃を受けて陥落した。清州城でその知らせを受けた信長は19日未明から行動を開始した。小説、映画、テレビ等でおなじみの場面が繰り広げられる。その出典は太田牛一「信長公記」。  このとき、信長敦盛の舞を遊ばしそうろう、人間五十年、下天のうちにくらぶれば、夢まぼろしの如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか…  信長は幸若舞「敦盛」のこの場面を戦場に向かう前に謡い、舞った。さらに「死のふは一定、しのび草は何をしょぞ、一定かたりをこすのよ」の小唄を口ずさみ、信長の孤高の姿が多くの日本人の共感を呼んだ。  「桶狭間」は対米開戦を前に、日本軍参謀本部は真珠湾攻撃を行う際、奇襲攻撃と短期決戦、なによりも寡兵よく大敵を破るという作戦を説明するたとえに使った。信長を日本、義元をアメリカという大国の強敵にたとえた。  だからこそ、日本人は信長を好んだ。日本国民の多くがヒーローとして信長をたたえる大きな理由は「桶狭間」である。義元はその敵役であり、大軍を率いる凡庸な武将としてのイメージが持たれてきた。  そのイメージは間違ったものであり、義元のイメージを変える目的の大イベントが静岡市で開かれる。 「今川復権まつり」でイメージは変わるか  「今川義元の『桶狭間の戦いで大軍を率いながら、少数の織田信長に討たれた公家風の大名』というイメージは後世に作られたもので、実際は領国経営に優れた優秀な戦国大名」。今川義元生誕5百年祭のチラシにびっくりした。「領国経営に優れた戦国大名」を強調しなくても、静岡大学名誉教授の小和田哲男著「駿河今川一族」など戦国大名今川氏の研究でたびたび紹介されてきた。「桶狭間の戦いで大軍を率いながら、少数の織田信長に討たれた公家風の大名」は後世につくられたイメージだったというのである。  今川義元生誕5百年祭は、今川研究の第一人者、小和田氏が委員長となり、駿府城公園でイベントを繰り広げる「今川復権まつり」(5月3日~6日)をはじめ、「東海の覇者 今川義元と駿府」展(静岡市文化財資料館ほか)「今川シンポジウム」(静岡市民文化会館)などを大々的に開催、今川義元の功績を再評価、後世につくられたイメージを変えるのが目的となる。  「桶狭間の戦いで大軍を率いながら、少数の織田信長に討たれた公家風の大名」。「今川復権まつり」で日本人に長く定着した義元のイメージを変えることができるのか? 川勝知事が「桶狭間」での家康の働きぶりを紹介  歴史は、後世の者たちによってつくられていく。虚々実々に粉飾され、事実とは遠いところにあるのかもしれない。かっこういい信長の対極に位置する敵役の義元のかっこう悪いイメージを変えるのは並大抵ではない。  今川氏研究を長年行ってきた小和田氏にはその成算を胸に秘めて、このような大胆なチラシを作成したのだろうか?  今川義元公生誕五百年祭にちなんで、小和田氏が執筆した「駿府と今川氏」、さらに3月23日出版された「今川義元 知られざる実像」(静岡新聞社)を読んでも、イメージを変える戦略はどこにも紹介されていない。  そうだ、今川氏を滅亡させた甲斐の武田を滅ぼしたのは徳川家康である。今川方の一員だった家康は「桶狭間」でどのように戦ったのか?小和田氏の著作では、「人質」として駿府で義元に庇護されたイメージばかりで、「桶狭間」の家康の戦いぶりは紹介されていない。  いろいろ調べていくと、「桶狭間」で家康の役割を最も知るのは、川勝平太静岡県知事だった。1984年川勝知事が訳書として出版した「鉄砲を捨てた日本人」(ノエル・ペリン著)で、「桶狭間」での家康の働きぶりを明らかにしていた。 丸根城を陥落させた家康の戦略  「おそくとも1560年になる前から、大きな合戦では鉄砲の使用が始まっていたとみられる。というのも、同年、完全武装の武将(佐久間盛重)が鉄砲傷がもとで生命をおとしている」。本文の「注」を読んで驚いた。「武将佐久間盛重は丸根城を陣頭指揮していたが、1560年6月22日(西洋暦で和暦の5月18日)、同城は徳川家康に攻略された。この時、家康は『火縄銃の集中攻撃をたくみに利用した』。鉄砲の伝来から17年後のこと」。同書では「桶狭間」ではなくその前哨戦で、鉄砲を使って勝利を収めた家康の戦いぶりに注目していたのだ。  川勝知事の訳書をきっかけに「徳川実記」などで、「桶狭間」の家康の戦いぶりを調べた。  丸根城は沓掛から桶狭間を経て、大高城を見下ろす位置。そのまま放置すれば、丸根城から今川本隊へ思わぬ攻撃を受ける恐れがあった。織田方の大将、佐久間盛重は城を完全に締め切り、万全の防備を敷いた。家康は真正面から攻撃を仕掛けるが、苦戦、膠着状態が続いた。家康の劣勢を好機と見た盛重は城を打って出て突撃を指示する。  突然の総攻撃に家康軍はずるずると後退、盛重軍は勢いづいて攻撃を加えた。ところが、家康は先鋒の後ろに鉄砲隊を用意していた。運良く、一発の銃弾が盛重に命中、敵方の大将が馬から転落した。それを見て、家康軍は盛重に殺到、盛重の首を取る。敵の大将首が振り回され、家康側は逆転、織田方は総崩れとなり、丸根城を陥落した。鉄砲による勝利をもたらした初の事例として「鉄砲を捨てた日本人」で高く評価された。  桶狭間に陣を構えた義元に家康は勝利を報告、今川隊は歓喜に包まれる。義元は家康に大高城に入り、休養するよう命じた。その半日後、信長の騎馬隊が桶狭間を襲い、義元の生命を奪う。  そうだ、今川義元のイメージを変えるのは家康だったのだ。家康はその後、どのように「今川復権」に奮闘したのか? 泉岳寺は義元を祀るために家康が創建  「桶狭間」で義元が非業の死を遂げたあと、家康は4日後に岡崎城に戻っている。その4日間に何があったのか史実では語られない。翌年には信長と和睦し、その後の家康の活躍が続いていく。  家康と今川氏の関係がどのように続いたのか、頭から離れなかった。「桶狭間」当時、19歳だった家康は、駿府の「人質」時代の9歳から青年期まで10年間を育ててくれた義元を敬愛、その恩義を忘れなかったはずだ。  先年東京・高輪の泉岳寺を訪れたとき、その案内板に書かれている事実を見て、家康が義元への恩義を形に表わしたことを初めて知り驚いた。  慶長17年(1612年)泉岳寺を創建したのは家康であり、開山は今川義元の孫、門庵宗関(もんなん・そうかん)。泉岳寺と言えば、毎年12月14日の義士祭に数多くの人々が訪れる人気スポットだ。  門庵宗関は今川氏研究の第一人者、小和田氏の「駿河今川一族」(新人物往来社)、大石泰史氏の「今川滅亡」(角川選書)などに登場してこない。どのような人物であったのか不明であり、研究も進んでいないようだ。江戸長谷寺、豪徳寺を開山したことは分かるから、当然実在の人物であり、泉岳寺の案内板にあるように義元の孫である。(タイトル写真は泉岳寺の楼門)  何よりも、泉岳寺は義元を祀るために家康が創建したのだ。「泉岳寺」と義元の関係は、いまや顧みられることはない。あまりに大石内蔵助ら赤穂義士が有名で、義元、家康との関連などだれも気付いていないのだ。  慶長17年(1612年)4月義元の長子、氏真が駿府の家康を訪ねている。氏真75歳、家康71歳だった。武田方に氏真の今川家が滅ぼされたあと、家康は物心ともに氏真を支えた。京都に住む氏真は父義元のために創建された泉岳寺を訪れるのが目的で下向する途中だった。  創建当時の泉岳寺は品川にあり、1641年の大火で焼失した。三代家光は再建を指示、浅野家などが当たった。そして、元禄時代赤穂義士の討ち入りの物語の舞台となり、いまや日本人ならばだれもが知る場所となった。 泉岳寺の新たな魅力を売り込め  戦前、日本の敵だったアメリカのイメージをつくったのは日本軍参謀本部である。それに伴い、「桶狭間」の信長、義元のイメージもつくられた。戦後になり、アメリカのイメージは大きく変化した。「アメリカの文化」に多くの日本人が熱狂した。アメリカのイメージを変えたのは大衆だった。  残念ながら、歴史学者は歴史の事実を追うことはできても、歴史人物のイメージを変えることはできない。まずは、川勝知事の訳書「鉄砲を捨てた日本人」から「桶狭間」ではなく、家康の攻めた「丸根城」こそが世界レベルでは大きな注目を集めていることをより多くの人たちに知ってもらうべきだ。  今川義元と泉岳寺を結ぶ大きな太い線をたどるとき、全く違う義元像ができあがってくるだろう。12月14日の義士祭を中心に多くの日本人が訪れる泉岳寺は、義元、孫の宗関、家康とを結ぶ場所であることから始めれば、多くの日本人がその意味を理解するだろう。  忠臣蔵ゆかりの「仇討ち」で本懐をとげた赤穂47義士が主君浅野内匠頭の墓前に大石内蔵助らが報告に訪れた泉岳寺は、「桶狭間」で非業の死を遂げた義元の霊を祀るとともに、家康が天下統一を成し遂げたあと、少年期から青年期まで駿府で過ごした平和な10年間を国全体にもたらすことを誓った場所でもあるのだ。  義元のイメージを変えるためには、田辺信宏静岡市長は川勝知事と手を結んで、家康が創建、義元をまつる泉岳寺の新たな魅力を売り込むところから始めたほうがいい。 (次回2は2020年設置予定の今川義元像について説明します)

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CCRC?富裕層が静岡市を目指す理由

入居一時金は夫婦で6400万円  脳死した男児(当時1歳)の肺を提供した両親が、大学病院やテレビ局などの対応に不満を持ち、損害賠償請求を近く起こすというニュースが5日新聞、テレビ等で流れた。これで、日本ではますます子供の脳死による臓器提供移植は進まず、その一方、アメリカに渡航、心臓移植などをするための寄付金活動がこれまで以上に多くなる可能性が高くなった。  海外の臓器移植での寄付金目標額は半端な額ではない。ネット検索すれば、3億円や3億5千万円を目標に、〇〇ちゃん、✖✖くんなどの臓器移植募金活動が数多くヒットする。その内訳では医療費5000万円、渡航費5800万円など多額の費用が掛かることを説明。移植手術以外助からない子供の生命を救うのに3億円は非常に安いのだろうが、すべての人が支払える額ではない。  先日、静岡市呉服町にできた「札の辻クロスビル」の住宅型有料老人ホーム(ロングライフクイーンズ静岡呉服町)のチラシを見て、びっくりした。夫婦入居タイプの部屋(45・8平方㍍)で、入居一時金「6400万円」!そんな高額な費用を支払える裕福な夫婦は静岡市内にどのくらいいるのだろうか?入居資格は65歳以上だから、ほとんどは年金生活世代だ。  入居時の6400万円だけではない。毎月の支払いは、管理費26万1千円、食費(3食)は1人当たり7万2千円の14万4千円。合計で毎月40万5千円+電話代、美容健康費、医療費、外食交際費など自己負担も必要だ。6400万円を支払った上に、毎月約50万円もの費用を支払えば、十年で6000万円、二十年で1億2千万円だ。当然、通常の費用以外に思い掛けない出費が出てくる。ちょっと長生きすれば、海外での臓器移植と同様の3億円(夫婦2人)になるかもしれない。 健康長寿には3億円程度必要だ  江戸の昔は、十両盗めば打ち首という時代だった。父親が川で溺れてしまい、泳ぐことのできない息子は途方に暮れていると、通りがかりの男が「十両出せば助けてやる」と言う。息子「三両しか出せません」と頭を下げると、男「仕方がない。七両に負けてやる」。溺れていた父親がそれを聞いていて「息子よ、それ以上だすな!それ以上だすくらないなら、わたしは溺れて死ぬ」。この笑い話を現実に置き換えると、なかなか深い意味を持つ。臓器移植が必要な難病の子供がいても、3億円なければアメリカへ渡航して、臓器移植の順番待ちに加わることはできない。寄付金を待っていられない両親は、子供のために3億円を借金できるのだろうか?  子供の生命を救うためとはいえ、両親は3億円の借金を躊躇するかもしれない。簡単なことだが、寄付による善意の3億円は返さなくていいが、借金の3億円は利子をつけて返さなければならないからだ。  呉服町にできた札の辻クロスのマンション型有料老人ホームに入れば、健康でぼけることなく、長生きできるのであれば、高齢者たちは何としても資金を用意したいと思うだろう。施設を見ると、8階から12階のマンションタイプの部屋は26平方㍍(1人用)から46平方㍍(2人用)であまり広くはないが、豪華でさまざまある共有施設やスタッフの支援など快適な生活を送ることのできるよう工夫されていた。  一番の問題は、65歳以上の夫婦はいまから借金できないだろうから、そこへ入居するためには夫婦で頑張って3億円くらいの貯蓄が必要だ。 真の狙いは富裕層の静岡市移住  チラシのキャッチフレーズに「静岡市とロングライフの官民一体プロジェクト CCRC(生涯活躍のまち静岡)」とあった。そうか、静岡市が有料老人ホームを後押ししているのだから、ここで暮らせば「健康長寿」を保証してくれるのか。  再開発ビル「札の辻クロス」は13階建てで、1~2階は商業施設、3~5階は駐車場、6~7階は健康関連施設と多目的ホール、8~13階が有料老人ホーム84室だ。CCRC構想は、田辺信宏市長が推進する5大構想の1つ「健康長寿のまちづくり」を実現するための重要施策だと説明。  昨年10月の開業直前に有料老人ホームを運営する会社が変更した。その理由は明らかにされていない。8~13階の所有者が前の運営会社との契約を解除、入居時費用や月額の管理費用の面で齟齬があったようだが、民間同士のことだから、静岡市は説明を避けた。当時の新聞や仲介業者HPを見ると、引き継いだ運営会社日本ロングライフの入居一時金は約1880万円~3770万円とうたっていたが、システムをかえて現在のチラシ等にある6400万円などに変更したようだ。  CCRCの取り組みは、高齢者を対象とした静岡市中心街での生活を提案。直接的な事業として、1、地域交流を促進するコンシェルジュの配置、2、お試し移住体験(静岡市が有料老人ホームの一室を借りて、1日1500円で生活体験する)、3、健康関連イベントの実施を挙げている。  人口減少対策として、東京などの富裕層の高齢者を静岡市へ移住促進することが狙いだという。いまのところ、10組(1人あるいは2人)が生活体験に参加しているが、東京からの参加者は極わずか。  ロングライフの担当者によると、84室のうち、25室程度が契約をしたようで、そのうち7割程度は静岡市在住者、平均年齢83歳とのこと。この数字を見ると、CCRC構想はこれからといったところか。実際にはこれで運営は大丈夫なのか、担当者に聞きたくなったくらいだ。  すぐお隣にある29階建て呉服町タワーマンションの賃貸物件は入居一時金(敷金、礼金)72万円程度、1LDK57平方㍍17万8千円、2LDK75平方㍍24万円、毎月の管理費・修繕積立金、固定資産税など5万円程度。こちらも決して安くはないが、札の辻クロスの住宅型有料老人ホームがいかにずば抜けた超高級感で売っているのかがわかる。  ロングライフは住宅型有料老人ホームを、京都嵐山、兵庫県の苦楽園芦屋別邸などブランド力の高い地域で運営。果たして、静岡市呉服町に首都圏等から超富裕層の高齢者が移り住むことになり、静岡市の掲げる「地方創生の取り組みモデル」なるのかどうか、しばらく注目していきたい。

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静岡市中心街の信号機が消えた理由は?

突然信号機が撤去された  3月13日、静岡市の七間町通り、両替町通り交差点の信号機が消えてなくなった。何の前触れもなく、街中の信号機が突然、消えてなくなったのだから、毎朝通勤、通学に使っていた市民、学生らは本当にびっくりしただろう。  早朝、散歩していて信号機がなくなったのに気づいたとき、何年か前、七間町通りを代表するオリオン座(東海地方一の大画面を誇っていた)、ミラノ座など映画館がすべて消えた記憶がよみがえった。そのときは何度も告知があり、建物の解体から始まったので、しみじみと「シネマ通り」の名前にお別れを言うことができた。  今度のお別れは突然だった。信号機ひとつとはいえ、昨日まで見慣れた風景が変わってしまった。信号機があるのが当然だったから、タクシーなどは歩行者に注意して交差点を慎重に通過していくのがわかった。何かの工事の都合で一時撤去されたのか、それとも信号機自体の具合が悪くて修理に出されたのか?そんなことも考えた。  いずれにしても、静岡市中心街交差点にあった信号機がなくなるのは初めてだ。  静岡市は人口減少を止められず、商店街の地盤沈下が大きな課題だ。交差点近くの人気ラーメン店が昨年夏閉店、交差点角にあった中華バーミヤン(2階は系列イタリア料理店)は駐車場に変わり、老舗あなごやなども消えた。七間町通りでは数多くの空き店舗が目立つ。交差点の近くにあった家具・雑貨店も閉店、いま現在は4月7日投開票のある静岡市長選候補の後援会事務所として使われている。選挙が終われば、また空き店舗になってしまうだろう。  そうか、人通りがめっきりと少なくなり、信号機は不要と判断されたのか? 警察の判断で信号機は撤去できる  道路の維持管理は静岡市だが、信号機を設置、維持管理するのは警察署。早速、静岡中央署交通課に聞いた。「信号機を13日未明に撤去した。告知等はしなかった」と回答。やはり一時的なものではなく、未来永劫に不要なものとして撤去されたのだ。「信号機を設置してほしい」という地域からの要望は数多いと聞く。「信号機撤去」も地元民の要望なのか?  「撤去の手続きは明確に決められていないが、警察署内で検討した上で、県警本部の了解を受けた。当然、静岡市に報告した」。そうか、やはり寂れていく街に信号機は不要と判断したのか?  「そのような理由ではない。単に交差点の信号機がなくても安全と判断した。また、歩行者にとってはムダな待ち時間がなくなるから便利で流れがスムーズになる」。つまり、人通りが少なく街が寂れたのではなく、街の活気を取り戻すためと言っている。札ノ辻から七間町通りと言えば、江戸時代の東海道として一番活気のある通りだった。  そう言えば、すぐ東側の七間町通りと呉服町通りの札ノ辻交差点にも信号機は設置されていない。週末には、呉服町通り、七間町通りは歩行者天国となり、多くの家族連れでにぎわう。午後1時からの歩行者天国は最近、午前11時からと2時間も前倒しされた。そうか、七間町通りも呉服町通りのように活気ある通りにするために信号機を撤去したのか。  人が歩きやすい街に、活気ある通りにしたい!待てよ、「活気ある街づくり」に信号機は不要だと言えば? 中心街に残った信号機とは?  わたしの頭の中に浮かんだ街の様子を概念図にしてみた。  お分かりだろうか。さまざまな道路が交差しているが、主要道路との信号を入口、出口とするとその面の中に、ただ一カ所のみ信号機が中心街に残されている。撤去された交差点のすぐ南側、2つの青葉通り、青葉緑地(青葉シンボルロード)、両替町通りの交差点、横断歩道にある信号機だ。  毎週末ごとに、青葉緑地でさまざまなイベントが開催され、多くの市民らが詰め掛ける。信号機があるばかりに、歩行者は待たされることが多い。スムーズな人の通りを重視するならば、2つの交差点信号機を撤去したほうがいいのでは?また、にぎわいの街づくりにも不可欠なのでは?  「できればそのようにしたい」。中央署担当者は力強く答えた。ぜひ、そうすべきだ。  しかし、そう簡単なものではないらしい。地元の意向等を十分に聞いた上で撤去しなければならないからだ。今回のように突然行えば、市民らからクレームが出るかもしれない。一方通行の青葉通りも交通量はそれほど多くはないが、信号機がなくなって不満を唱える住民がいるのかもしれない。  何よりも地元の活気や発展をのぞむのは、青葉緑地の終点にあり中心街を見渡す静岡市役所だ。静岡市が率先して信号機の撤去を地元に提案すれば、スムーズにいくに違いない。  「まちは劇場推進課」など派手なキラキラネームの担当課をつくっているのに、なぜ、静岡市は信号機を撤去するよう連携しないのか? 権限のないことはやりたくない  中央署から信号機撤去の報告を受けた静岡市道路整備課(維持係)に聞いてみた。まずは、信号機の設置、撤去の権限は静岡市ではなく、警察にあるという説明から始まった。権限のない事業については、あまり考えたくないというお役所式の答弁だ。  「街のにぎわい」のために信号機が必要かどうかを検討はできるのでは?「それはその通りだが、道路整備課が担当ではなく、市街地整備課や都市計画課、商店街を管轄する商業労政課(清水区役所)などのいずれかが担当する」。うーん、街全体をデザインするとき、各課のセクショナリズムを廃して、一番よい方向に調整する部署がないと言っているように聞こえる。どこも実際には、直接の担当ではないから、もしかしたら、たらい回しになる可能性も出てきた。  とりあえず、市街地整備課へ行ってみよう。 コンパクトシティにするためには   「車優先ではなく、歩行者たち優先のにぎわう場所にしていきたい」。市街地整備課で話を聞いていたら、お隣の都市計画課担当者がやってきて、そう言った。それならば、信号機は不要では?「当然検討していく」と回答。えっ、検討?いつ、どこで議論していくのかと聞けば、いまのところはそういう場所はないとのこと。裏を返せば、信号機撤去の担当課ではないので、検討材料ではあっても全く考えていない、と聞こえてくる。  「一方通行の青葉通りで車のスピードが出てしまう。信号があることによって減速できる」。市街地整備課担当者の信号機はあったほうがいいという意見だ。車に乗っていて、一刻でも急ぐといつの間にかスピードが出てしまうのはよくわかる。  交通事故の抑止効果で信号機の役割は大きい。それでも、静岡中央署は七間町通り、呉服町通り交差点の信号機撤去という、びっくりするくらいの英断に打って出た。信号機撤去で交通事故が起きれば、責任を覚悟の上だ。  そう考えれば、青葉通りのほうが危険性が高いというのはうなづけない。交通標識、道路標示などで周知すれば、信号機の効果に近いはずだ。  週末に呉服町、七間町通りだけでなく、両替町通りも「歩行者天国」にしたほうが活気が生まれる。人口減少対策を専門とする日本銀行の竹内淳静岡支店長は「コンパクトシティとして街中にもっと人を呼び込むことで街の魅力を発信する、そのための規制緩和をやるべき」と話している。信号機のひとつもない中心街という「魅力を発信」するために、最後に残された信号機(「規制」)をなくすことに全力をつくすべきだ。  静岡市長選の各候補は中心街の信号機撤去を公約に入れたほうがいいのでは?

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「文化が好き」ー静岡市長への批判?

清水経済人「文化じゃ飯が食えない」  2月10日日本経済新聞全国版に静岡市美術館の展覧会「起点としての80年代」のカラー5段広告が掲載された。ちょっと驚いて、当日昼頃、市美術館に出掛けた。日経の広告5段カラー面掲載料は約1200万円と非常に高額だ。入場料1100円だから、この広告を見て1万人以上が入館しなければ、採算は合わない計算になる。会場はぱらぱらとしていて、広告の効果はあまり感じられなかった。  「文化じゃ飯が食えない」。その言葉が頭に浮かんだ。もし、正規の広告料金を払って、それに見合う入場客を期待したとしたら、展覧会が赤字となったとき、担当者は責任を負わなければならないのか。展覧会の赤字で担当者の責任問題に発展することなどない。展覧会は「文化」であり、お金という尺度で計算しないようだ。  2月5日朝日新聞朝刊の記事。「田辺(信宏)市長は企業誘致に関心がない。歴史文化、教育文化と『文化』が好きだからね。それじゃ飯が食えない」と皮肉を込めた批判を、清水区の経済人が言ったようだ。難波喬司副知事の市長選不出馬会見の関連記事だが、「文化じゃ飯が食えない」批判が気になって、頭から離れなくなった。  展覧会チラシには「インスタレーション」「メディア・アート」「オルタナティブ・スペース」「メディウム」など難解なカタカナ英語が羅列され、ほとんどの作品が言葉通りの難解さをまとい、感動や共感も得ることができなかった。「文化で飯が食えない」かもしれないが、それでは「文化」とは何だろうか? 地下街のガス爆発事故の記憶  美術館を出て地下街を歩いていて、ああそうか、あの展覧会は時代を全く理解していないことに気づいた。静岡市にとって「起点としての80年代」が何かを考えずに、他からの借り物のような外国語で飾った芸術家たちの展覧会をやっても共感を得ることはできないからだ。  アインシュタインの有名な「相対性」理論。簡単に言えば、「相対性」とは主観的な時間で、つまらない学校の授業は退屈で時間は長いと感じる、一方、美しい絵画を恋人と見る時間はあっという間に過ぎる。「退屈」と「夢中」の時間の長さで「相対性」を説明した。「文化」も相対的なもので、感じ方はみな違うのだが、あまりに難解ならば苦痛を強いる長い時間と感じる。理解不能なカタカナ英語をやめて、やさしい言葉で説明することはもちろんだが、みな共通の「問題意識」を投げ掛ければ、多くの人は夢中になるはずだ。授業も教え方ひとつで変わってくる。  その問題意識が、静岡市にとっての「1980年の起点」だ。それは何だったのか?  1980年8月16日。静岡駅前地下街でガス爆発事故が起きた。15人死亡、223人重軽傷という大惨事。忘れているだろうが、歴史的な事件として記録されている。その現場となった付近は、どういうわけかシャッター通りになっていた。日曜日なのに人通りは非常に少なく、まるで40年近く前の記憶がその周辺に残っているようだ。真っ白なシャッター通りが「80代年への扉」だ。タイトル写真の白いシャッターはまさに「インスタレーション」作品そのものではないか?  美術館のすぐ近くに、「Starting points:Japanese of the ’80s」ではなく、「Shizuoka of the ’80s」という「80年代の扉」がある。あの日の煙やにおい、消防車、救急車のサイレン、爆発による道路に散らばったガラス破片など静岡の人たちの記憶に残っている。その2日前の14日には富士山で大落石があり、12人死亡、35人重軽傷の事故も起きていた。思い掛けない大惨事と「文化」を結んでいたものは何だったか?静岡の「80年代の扉」をみなが知っているのだから、美術館の「80年の文化」にはインパクトを感じないのだろう。 40年前の村上春樹の評価   1979年6月に第22回群像新人文学賞が発表された。受賞作は村上春樹「風の歌を聴け」。わたしにとっての80年代の始まりは、この作品からだった。審査員は丸谷才一、吉行淳之介、島尾敏雄、佐多稲子、佐々木基一。「何が書いてあったのか覚えていないが、おもしろかった、2度読んだ」という評が大勢を占めた。「ポップアート」みたいな印象であり、しゃれたTシャツの略画まで挿入されていたと老人たちはみな驚いたが、当時はまだ「文化」と見なされなかった。  芥川賞審査員の丸谷をはじめ、村上の処女作を無視した。長い間、日本の文壇では村上の存在を無視し続けたが、米国ニューヨーカー誌をはじめさまざまな国で翻訳され、高い評価を受け、ノーベル文学賞の有力な候補になった。当時の文学賞審査員の先生方はみな亡くなった。村上は彼らと違い、芥川賞もその他日本の文学賞も関係なかったが、いまや世界の注目を集める「文化」の中心人物となった。「文化」そのものが変わったのか。村上の文学は初めから同じで、何も変わっていないが、わたしたちは過去から続くすべての背景を知っている。それが「時代の文化」だ。 駿府公園に県立美術館?  もう1つの40年前の話だ。静岡県議会百年記念事業として県立美術館建設の計画が持ち上がった。静岡市は県都である駿府公園に建設するよう要望、静岡経済界の代表らが委員会をつくり、1980年7月駿府公園への建設が決まった。ところが、まず、駿府城天守台が発見され、すこし北側に建設地を移して建設することになった。  2年掛けて発掘調査を行ったところ、今度は戦国時代の庭園跡を発見、今川館跡の可能性が高くなった。とうとう県立美術館は現在地の静岡市谷田に変更された。県立美術館が建設されていたら、3年前から始まった天守台跡発掘などなかっただろう。  そして、「日本一大きな天守台」や「金箔瓦」が発見され、来年度5百万円の予算で天守台遺構をどのようにするのか検討していくことになった。当然、発掘した遺構をそのまま”フィールドミュージアム”として活用することはできない。風雨など自然的な影響を考えれば、最善の保存は埋め戻すしかない。当初の天守台再建計画を見直せば、4百年前の天守台を見学できる屋根つきの大型施設建設へ舵を切ることになる。莫大な予算が必要になる。  さて、どうするのか?  先日田辺市長と話す機会があったが、いくら「文化が好き」市長でも美術館開催の展覧会同様にすべてのことを承知しているはずもない。すべては職員からの情報(よい情報も悪い情報もある)を基に判断するしかない。市長ならば地下シャッター街をどのようにするか経済の問題ではなく、文化の問題と見ることもできる。駿府城跡地についても、同じことだが、最終的な判断は市民の代表、市長にゆだねられる。責任は非常に重い。  ただ、静岡県も静岡市も、40年前、駿府城公園に県立美術館を建設する計画を立てた事実を忘れている。川勝平太知事は、静岡市の歴史博物館計画に批判的だ。40年前、なぜ、駿府城公園に県立美術館をつくろうとしたのか、もう一度、整理していけば相互の役割が見える。そうあってほしい。  難しいカタカナ英語ではなく、わかりやすいことばで両者が話し合えば、40年後には、”共創”でできあがった立派な文化施設が海外からの観光客をはじめ多くの人に感動を与えるだろう。ただし、この問題はいま考えなければならない。

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「健康長寿」の実践者ジャック・ラレーン

96歳で亡くなったジャック  8年前のきょう1月24日(米国時間の1月23日)、Jack LaLanne(ジャック・ラレーン)がカリフォルニアの小さな観光地モロベイ(Morro Bay)の自宅で亡くなった。行年96歳。モロベイは伊豆半島と似た温暖な地域であり、西伊豆海岸の観光地によく似ていて、小さな島が近くに点在する美しいビーチとヨットハーバーが有名な街だ。  ジャックは1週間前から調子が悪いことを気づいていたが、同居する家族が勧める医者の往診も近くの病院へ行くことも拒否した。死ぬ前日まで、日課にしていたエクササイズ(運動)を通常と変わらぬようにやり、翌日、家族が起きてみると、ジャックは永遠の眠りについていた。  ジャックは健康についてこんな風に言っている。「エクササイズ自体が好きだったことは一度もない。だが、健康に必要なのは頭で考えることではなく、いつまで体が自分の思うように動くかだ」  ジャックは寿命が尽きるその日まで心身ともに「健康ライフ」を全うした。 エクササイズ推進者になるまで  ジャックは1914年9月、カリフォルニア州の大都市サンフランシスコにフランス移民の両親のもとに生まれ、父の都合でカリフォルニアの街を転々とした。小さな頃はお菓子とジャンクフードが大好きで、いつしか砂糖中毒に冒されていた。過食症で丸ぽちゃのジャックはときどき頭痛に悩まされ、怒りにまかせて斧で弟を殺しかけたこともあった。14歳のとき、父親が54歳で亡くなった。そのころ自分自身が醜い姿であることにようやく気づいた。  健康食品の提唱者であり、ボディビルダーのポール・バラッグ(1895~1976)の「肉と砂糖」の弊害についての話を聞いた日に、ジャックはモーセのごとく啓示を受けたのだ。その日を境にすべてが変わっていく。自分の体の潜在能力を解き放そうと、まずは肉体を完全に変えることで自分自身の世界を変えようと決意した。  いつしかジャックの口癖は「果物と野菜を食べろ、何よりも必要なのはエクササイズだ」。 「健康長寿」とは幸せに生き続けること  90分のウェイトリフティング、30分のランニング、20分で1千回以上の腕立て伏せをするなどをするうちにジャック独自のエクササイズを開発していく。  1936年ジャックが発明したのが、大腿四頭筋を鍛えるレッグエクステンション・マシーンだ。筋肉を鍛えることがいかに大切かをジャック自身の隆起した腿や腕、細くしまったウエストが教えていた。  地元サンフランシスコの健康食品店がローカル番組のスポンサーとなり、ジャックを世の中に売り出した。ダイエットの効能やあらゆる筋肉のためのトレーニングの設計を伝授すると、視聴者はテレビの前でジャックをまねするようになった。6年後、ジャックのショーは全国番組となり、米国中がジャックの「ジャンピング・ジャック」「スクワットスラスト」「レッグリフト」に夢中になり、それらは米語の語彙として使われた。  そのころの彼のことば。「微笑むことは喜びを動力として筋肉の全組織を使うことだ」。アメリカ中の女性視聴者たちはこぞって滑稽までに口を大きく開けたり、閉じたりして微笑むことを彼に学んだ。  「問題があれば幸せと思えるほうがいいんじゃないか。それで惨めになるよりも」。ベトナム戦争に敗れ、ニクソンに不名誉な退陣が用意され、アメリカが自信を失いかけていた時代、アメリカの男たちはジャックの言うことに素直に耳を傾けた。彼の無限のエネルギーが大好きであり、目を落とすと自分の腹が見えることにうんざりしていたからだ。頭でっかちで怠惰になりすぎた肉体は座ったまま飲食におかされた。しかも、そうなることを自分で許してしまった。いつか何もできず寝たきりになってしまうことも知っていた。ジャックのショーを見て一念発起する者も数多く、その後、彼らはジャック同様に幸せとは何かを実感した。  寿命が尽きるその日まで健康でいるためには、ジャックにならってエクササイズをし続けなければならない。「健康長寿」とはそういうことだ。 サンフランシスコ訪問の目的  昨年夏、サンフランシスコを訪れ、ジャックが挑戦した両手に手錠をされ、両足を拘束、450キロのボートを腰にくくりつけて泳いだ現場に立った。1955年の41歳のとき、凶悪犯を収容したアルカトラズ島からサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ近くを目指して泳いだ。  19年後、ジャックは59歳(あと5日で60歳)で再び同じ挑戦をした。手かせ足かせされ、ボートを引いて水温10度の海流に逆らって3キロ以上の距離を、みずからが編み出したバタフライの変形水法で水中を突き進んだ。潮の流れに逆らって、ひと搔きひと搔きする筋肉は疲れ知らずだった。やがてジャックが波間から現れて歩き出す。手かせ足かせが解かれ、ボートを引いていた腰の縄が引き抜かれた。ジャックは妻のエレン(元水中バレエ選手、ジャックと会う前はチェーンスモーカーでドーナツばかり食べていた)を軽々と抱き上げた。  ウォーターフロントの群衆は熱狂し、感動に打ち震えた。人間業ではないことを成し遂げた偉大な男を絶賛するしかない。特に子供たちはジャックをスーパーマンのようにあがめ、その奇跡を見たその日から水泳教室に入った者が多かった。わたしがホームステイしたシアトルの英語教師ギャレットもその一人だった。「子供のときには彼がスーパーマンに見えた。大人になって、彼がただのふつうの男だと知ってうれしかった。だから、いまも毎日水泳と自転車をやっている」と話した。アメリカンドリームとはいまや金持ちではなく、健康長寿なのかもしれない。 緑茶多飲で「健康長寿」という国  昨日(23日)健康寿命延伸のための「社会健康医学」大学院大学設置のための委員会を傍聴した。「社会健康医学」大学院大学への疑問は「ニュースの真相 社会健康医学大学院大学のなぞ」に書いた。すでに出来上がった当局のシナリオを実現していくための儀式のような委員会だった。大学院大学設置の必要性について「緑茶を多く飲むと死亡率が低下する等の統計的な結果について、科学的な視点から要因分析」を挙げていたが、本庶佑委員長は「さすがに緑茶のために大学院大学を設置するのではまずい」などと訂正を求めた。まさに真相を承知していたかのようだ。  「健康寿命の延伸」が緑茶を多飲すれば実現するものではないことぐらい県民すべてが承知しているだろう。緑茶のカフェイン(アルカロイド)成分を問題にする医者も多い。緑茶ではなく、ミネラルを多量に含んだ水を多飲することを奨める研究者が多い。「健康長寿」の定義さえはっきりと決めないで、それを目的とした大学院大学を設置しても、その目的を果たせるとは思えない。  「最後になってお金の話をしても(……)ここまできてお金がないというのはおかしい。川勝知事はそのような手当てをしてほしい」(本庶委員長)。一般の県民はまず、お金の算段をしたあと、いろいろな買い物をする。全くそれがなくて大学院大学設置ができるとは、静岡県財政はあり余っていることに驚いてしまった。  「健康寿命の延伸」に行政が手を差し伸ばす日本と、ジャックらを指導者として個々人が取り組むアメリカとの違いは何か。何よりも静岡県は大学院大学の目的をちゃんと正直に話した上で事業を進めなければ、将来に禍根を残すことは間違いない。 ※タイトル写真はジャック・ラレーンではありません。ジャックはジャックでも作家のジャック・ロンドンです。サンフランシスコの対岸の街、オークランドにあるロンドンスクエアにある像。残念ながら、サンフランシスコでジャック・ラレーン像を発見できませんでした。  「晩夏の墜落」(BEFORE THE FALL、早川書房)のジャック・ラレーンの記述を参考にいたしました。

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「文化力の拠点」は”スタンフォード式”で

「文化力の拠点」施設とは何か?  川勝平太・静岡県知事は記者会見で、計画策定中の「文化力の拠点」施設についていまのところ、県立中央図書館移転以外の具体的な中身が決まっていないことを明らかにした。  静岡県の資料によると、JR東静岡駅南口県有地約2・43ヘクタールに静岡県の高い文化力を発信する施設を整備、全館移転の県立中央図書館を中心に、民間活力を最大限に生かしたにぎわいや交流の場所にするとある。図書館以外には、多目的情報発信スペース、大学コンソーシアムの拠点、駐車場、食・茶・花の魅力発信施設。そして「拠点の価値向上に資する民間提案機能」と書かれている。  「静岡県の高い文化力を国内外に発信し人々を引き付ける拠点」。キャッチフレーズからは、はっきりとしたイメージは浮かばない。早速、現地に行ってみた。当然、何もない。駅前からよく見えてくる大きな建物は宇宙船をイメージした建物だ。何も言わなければ、外国人観光客もその不思議な建物に入っていくだろう。これが「日本の文化」パチンコだと、店内に入って驚くだろう。  そこに「文化力の拠点」を持ってくるのだ。「国内外に発信する」にはよほどの「文化力」を持たなければならない。「文化力」とは何か? 県立美術館「ロダン館」はがらがらだ  先日、無料情報誌の広告を見て、静岡県立美術館の「ロダンウィーク2018」に出掛けた。ロダン館は4日間のみ入場無料だ。久しぶりにロダン館へ入ってみた。午後1時ころだったが、監視員の女性が椅子に座っているだけで入館者は1人もいなかった。  正面にある「地獄の門」をたっぷりと堪能した。しかし、心の片隅で入場無料なのに、なぜ、だれも鑑賞にこないのか、そればかり気になった。  ロダンウィークにちなんだ特別音楽が流れていた。わたし以外に誰もいないのだから、ちょっと音楽はやめてもらえるよう監視員に話した。監視員が学芸員に連絡する。答えは30分過ぎれば、音楽は止まるので我慢してほしい、という。配布パンフレットには「オマージュ・ア・ロダン」という創作音楽とある。ただ、その音楽の流れている30分間わたし以外だれもいないかった。  ロダンを「オマージュ(讃える)」?ばかにもったいぶった名前はついていたが、わたしにはとても気に障る雑音だった。こんな音楽を好む人たちのために流すならば、なぜ、多くの音楽ファンが訪れないのか不思議だった。 アメリカの美術館との違い  ことしアメリカにある2つの美術館で、ロダン彫刻を数多く見る機会があった。ニューヨークのブルックリン美術館とシリコンバレーのスタンフォード大学。  ブルックリンでは、知り合いになったブラジルの陽気な女性とグアテマラの若い男性と一緒だった。ロダン彫刻の横でポーズを取ったり、顔の表情をまねたり、すぐ横で大笑いをしながらそれぞれの個性的な彫刻と一緒に写真を撮りながら、所狭しと並べられた彫刻を楽しんだ。固い音楽ではなく、笑い声によるセッションがさまざまな表情のロダン彫刻に似合う。日本のように監視員が「静かにするよう」注意することもなかった。  スタンフォード大学は特別の場所だ。さまざまな国の人たちが訪れていた。特に中国人が目立った。「カレーの市民」は中庭にあり、建物とマッチしていた。県立美術館ロダン館とほぼ同じ規模のコレクションを誇っている。美術館内にある「考える人」は上から鑑賞するという趣向で、初めて「考える人」の頭頂部(脳の部分)を見ることができた。「考える人」の周囲に長椅子が置かれ、そこで「考える」ことを勧めているようだった。  ロダン彫刻は世界中の人たちに愛されている。ロダンと言って、知らない人はだれもない。静岡県が標榜する「高い文化力」とはまさに、ロダン彫刻を指すのかもしれない。  それなのに、県立美術館ロダン館はひっそりとして、だれもいなかった。静岡県を訪れる外国人観光客には見向きもされない。だれも聞かない音楽をなぜ、流しているのか?スタンフォードでも「考える」場所に音楽はなかった。そこにアメリカの美術館との違いが見えてくる。 25周年「ロダン館」の使命とは?  1991年県立美術館は開館3周年を記念して、「カレーの市民」6体を初めて購入した。そして、スタンフォード大学に続き、世界で6番目の鋳造となる「地獄の門」を目玉にロダン館が94年4月にオープンした。来年は開館25周年を迎える。  約30年前、東京・上野の国立西洋美術館前庭に置かれたロダン彫刻が酸性雨の影響で緑青汚染が大きな問題になっていた。そのため、県立美術館ロダン館は風雨の影響を受けることがないように、ラグビーボール状半楕円形屋根の建物内に展示された。開館あいさつで当時の知事は「国際的なロダン研究の拠点となる」と胸を張った。新聞等は「東洋一のロダン館」の賛辞を寄せた。  そして、25年間が経過した。ロダン研究の使命は果たされてきたのか?「東洋一のロダン館」の賛辞を受けたあと、アジアからの観光客は訪れたのか?今回のロダンウィーク企画を見れば、そんなことを考えた学芸員はいないのだろう。 「ロダン館」を一新すべきだ  スタンフォード大学では「地獄の門」も「カレーの市民」も屋外に展示されている。環境への意識の高いカリフォルニアでは、酸性雨の影響を受けることなく、鋳造された当時のブロンズの輝きを保ち、多くの観光客に親しまれていた。  それに比べて、県立美術館「ロダン館」彫刻はあまりにももったいない。「考える人」は隅に置かれてスタンフォードのような”主役”を張っていない。単に置いてあるにすぎない。  そもそも25年前、ロダン研究を託されたオープン時の学芸員は県立美術館には一人もいない。川勝知事が就任して、最初の「事業仕分け」で県立美術館も仕分けの対象となった。その仕分けを傍聴したが、その当時の学芸部長、学芸員さえいない。過去のコンセプトを覚えている人はだれもいなくなった。だからこそ、そろそろ「ロダン館」をもっと魅力あるものに変えていいはずだ。  開館25年を契機に、「ロダン館」を一新すべきだ。 スタンフォード式授業の場所に  「文化力の拠点」機能に「大学コンソーシアムの拠点」とある。それならば、スタンフォード大学との連携を図ればいい。日本だけでなく、中国、韓国をはじめアジアの学生たちもスタンフォードへの留学は大きな希望だ。東静岡駅にスタンフォードと連携した「大学コンソーシアム」が開設されれば、県内の学生だけでなく、多くの留学生はここを訪れるはずだ。  昨年9月に出版された「ライフデザイン スタンフォード式最高の人生設計」(ビル・バーネット&デイブ・エヴァンス著、早川書房)では、2人の教授による、デザイン思考で人生を変える画期的な方法を学ぶ人気授業を紹介している。スタンフォードと同様に「自分の好きな仕事、愛せる仕事を見つけたい」「豊かな暮らしを送るキャリアを築きたい」高校生、大学生、社会人らに、「文化力の拠点」施設でスタンフォード式授業を受けてもらおう。  そして、デザイン思考の孤高の天才、「考える人」はスタンフォード同様に「文化力の拠点」にふさわしいシンボルになるだろう。スタンフォード式授業のために、「考える人」は何よりも必要だ。いくつかのユニークなロダン作品も一緒に展示していい。そうすれば、「東洋一のロダン館」へも行き、「地獄の門」を見る人ばかりになる。当然、無料だ。  芳賀徹・前県立美術館館長は「文化の拠点」施設と県立美術館をロープウエーで結ぶ構想を提案した。これこそ「デザイン思考」の提案だが、まずはあまりお金を掛けないようスタンフォード式授業と結びつく「考える人」などの展示を行うくらいでどうか。「考える人」の展示で「文化力の拠点」施設が、スタンフォード式授業を実践する場所になる。これならば、国内外に発信できる施設になるはずだ。  「拠点の価値向上に資する提案」にぜひ、採用してもらいたい。

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「大御所石垣公開プロジェクト」を目指せ!

駿府城再建運動盛り上がる  1991年駿府城再建を求める市民運動がスタートした。94年には小島善吉元県議が静岡市長選挙で「駿府城天守閣の早期建設」を公約にして、当選した。家康の死後に描かれた駿府城絵図を基に駿府城天守閣再建を求める運動は大いに盛り上がったが、肝心の設計図が発見されないことなどから、2010年「駿府城天守閣建設可能性検討委員会」(会長・志田直正静岡英和学院大副学長、副会長・小和田哲男静岡大名誉教授、委員・徳川恒孝徳川宗家18代ほか)は「現時点では再建すべきではない」との答申を市に提出した。  さて、今回の駿府城跡天守台発掘で「日本一の規模である天守台」が発見された。家康時代を語る証拠の石垣によって、駿府城再建運動の風向きは変わるのだろうか。(詳しい記事は「現場へ行く 駿府城天守台は”日本一” なぜ、国の史跡ではないのか?」) 大阪の「豊臣石垣公開プロジェクト」  大阪市の進める「豊臣石垣公開プロジェクト」をご存じだろうか?左の写真はプロジェクト推進パンフレットである。  豊臣秀吉が築いた大坂城は大坂夏の陣(1615年)で落城後、徳川幕府によって“豊臣大坂城”を覆い隠すように“徳川大坂城”が築かれた。  1959年秀吉の築いた大坂城が現在の大阪城(1931年再建)の地下に眠っていることが明らかになった。地下約9㍍に秀吉時代の野面積みの石垣が発見されたのだ。太閤贔屓の関西人は大喜び。しかし、“世紀の大発見”と呼ばれた石垣は調査が終わると、保存のために埋め戻されてしまった。 “世紀の大発見”を見たい!  太閤さんによる“ほんまもんの大坂城”を見学できる施設をという熱い願いを関西人は持ち続けていた。その願いに押され、「豊臣石垣公開プロジェクト」が2013年大きな期待を集めてスタートした。埋め戻された石垣をもう一度、発掘調査して、“世紀の大発見”にふさわしい展示施設建設を決めた。地上階をガイダンスルーム、地下に石垣展示ホールをつくる計画だ。  2015年「大阪夏の陣4百年天下一祭」開催に合わせて大阪城をおとずれたときには、予備的な発掘調査が行われていた。「太閤なにわの夢募金」が「ふるさと寄付金制度」の適用を受け、5億円を目標に始まっていた。2018年7月時点で約2億3千万円の募金が集まり、いよいよ、地下約9㍍への本格的な発掘調査も本年度末までに始まり、2021年3月をめどに施設完成を目指していく。 駿府城をよみがえらせたい  大坂城の”20世紀の大発見”と同様に、“21世紀の大発見”駿府城の「日本一の天守台石垣」は、現在のところ風雨などの影響を受けないよう埋め戻される可能性が高い。ことしは野面積みの中村一氏の天守台、金箔屋根瓦など多数の新発見があり、来年度の発掘調査でも、さらなる貴重な資料が見つかる可能性も高い。  それを見越して、大御所ゆかりの静岡市は太閤さんに負けないよう、「大御所石垣公開プロジェクト」をスタートすべきではないか。こちらは何しろ、「日本一」であるから、大坂城石垣展示ホールなど比べものにならない規模になる。設計図のない駿府城天守閣再建と違い、文化庁は支援するだろうし、天守台石垣は国特別史跡指定も確実だ。  1996年再建運動を進めるメンバーが作成した「駿府城物語」編集後記に、世話人代表が「いくらどんな絵図があっても、それが文書のなかに留まっているかぎり、人々は時間の経過とともに駿府城の存在を忘れてしまう。静岡に住む者として、かつて確かにあったように駿府城をよみがえらせなければならない」と書いていた。  今回の発掘によって、まさに、いま”かつて確かにあった駿府城”がよみがえったのではないか。わたしは現代版天守閣再建を目指すための「天守台」復元よりも、発見された4百年前の天守台石垣こそが貴重だと考える。  観光客は家康時代の“本物”を見るために訪れるはずだ。ぜひ、発掘調査での新発見を基に、「大御所石垣公開プロジェクト」議論がスタートすることを大いに期待したい。

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日本平夢テラス 「稼ぐ」ことを意識せよ!

富士山の眺望が売り物  静岡県と静岡市が整備した日本平山頂シンボル施設「日本平夢テラス」(静岡市清水区草薙)に出掛けた。法隆寺夢殿を模した八角形3階建て展望施設は1階展示エリア、2階喫茶ラウンジ、3階展望フロア、大型モニターによる富士山映像、約2百㍍の展望回廊デッキがあり、入場は無料だ。    整備費用は約17億円で年間約30万人の入場客を見込んでいる。芝生庭園の東側に建立されている梅原猛氏「国土は富士なり」、中曽根康弘氏「富士山」の2つの石碑が展望施設のコンセプトを語っている。「富士山の眺望を世界にアピールしたい」。川勝平太知事の思いが詰まった施設である。日本平夢テラスからの富士山眺望は絶景であるが、年間を通して富士山を眺望できるのは150日程度である。せっかく富士山の眺望を期待して、日本平夢テラスを訪れてもがっかりする場合も多いだろう。 「まずすべきことが山ほどある」  小西美術工芸社のデービッド・アトキンソン社長はビジネス書のベストセラー「新・観光立国論」(東洋経済新報社)の中で「静岡県は2015年になってから、日本平に記念碑を建てるなどして眺望のよさを世界中にアピールしていますが、それよりもまずすべきことが山ほどあるのではないでしょうか」と厳しい意見を述べていた。  せっかくの観光資源を持ちながら「多様性」という発想がないばかりに、その魅力を引き出すことができず、外国人観光客も多く訪れていない。そんな観光資源の代表が「富士山」だ、とアトキンソン社長は指摘する。「多様性」という視点で、観光コンテンツを一つひとつ考え、戦略的に「観光立国」にしていくための整備をすべきだというのだ。  外国人観光客の関心が高い「日本文化の体験」や「神社仏閣という歴史的資産」をしっかりと整備、日本人が守ってきた「文化財」を整備することが重要だというのが、アトキンソン社長の持論だった。 説明にある「本物」を見たいが?  翻って、日本平夢テラスを見てみよう。1階は「日本平」の歴史などを紹介するコーナーだ。日本平の地形の成り立ちをプロジェクションマッピング(立体物をスクリーンとして映像で見せる技法)で紹介、日本語のナレーションの他に英語、韓国語、中国語の表示があったので押してみると、音声が替わるのではなく、映画のサブタイトルのようにそれぞれの言語の翻訳が表示されるだけだった。外国人観光客には期待外れだろう。  厳島神社の平家納経とともに平安後期を代表する装飾経・国宝久能寺経(清水区の鉄舟寺蔵)のていねいな紹介があり、その美しい画像と素晴らしい説明を読めば、多くの観光客はぜひ、本物を見たいと考えるだろう。ところが、久能寺経は現在、東京国立博物館に預託され、鉄舟寺に展示されていない。 既存施設への影響は?  2015年12月、日本平までのアクセス等の社会資本整備が遅れているため、日本平展望施設の完成によってこれまで久能山東照宮、日本平ホテル等へ訪れていた観光客が、新施設等を巡回することで時間的制約から既存観光施設への訪問客の大幅な減少が予想され、危機的な状況に陥る可能性を指摘、既存施設への影響等ないことを要望した。静岡県担当課は、既存観光施設への影響はほとんどないと断言していた。当然、当時の担当者はすべて入れ替わっている。  このため中途半端な施設になってしまったのか?施設そのものは民間の指定管理者に委託する。つまり、税金で運営されていく。アトキンソン社長は日本の観光地(文化財)はもっと「稼ぐ」ことを意識せよ、と言っていた。富士山の眺望にお金を支払うことはないのだろうが、日本平は「名勝」というれっきとした指定文化財である。「多様性」を持たせて整備していき、ぜひ、多くの外国人観光客に訪れてもらうとともに、「稼ぐ」ことのできる観光地にすべきだ。  2015年6月に開かれた「日本平山頂シンボル施設基本構想策定委員会」で、委員の一人が「日本のシンボル富士山にふさわしい日本一の施設にすべきだ」と発言していた。その議論を聞きながら、芭蕉の俳句「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」が頭に浮かんだ。富士山の眺望がなかったとしても、日本平夢テラスは「面白き」時間を過ごせる「日本一」の展望台になったのだろうか?