「桶狭間」今川義元のイメージ変える1

「桶狭間」は無様な義元のイメージをつくった

 1941年12月真珠湾攻撃に先立って、連合艦隊司令官山本五十六は「桶狭間とひよどり越えと川中島を合わせ行う」という有名なことばを残した。おそらく勝てぬと覚悟した戦いに臨む山本は、信長の奇襲攻撃による短期決戦の勝利とともにその「死生観」に学ぼうとしただろう。

 永禄3年(1560年)5月、駿府の今川義元は2万5千の大軍を率いて尾張に侵入、18日織田信長との先端を開いた。織田の兵力は総数わずか4千余り、丸根、鷲津の砦は今川方の攻撃を受けて陥落した。清州城でその知らせを受けた信長は19日未明から行動を開始した。小説、映画、テレビ等でおなじみの場面が繰り広げられる。その出典は太田牛一「信長公記」。

 このとき、信長敦盛の舞を遊ばしそうろう、人間五十年、下天のうちにくらぶれば、夢まぼろしの如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか…

 信長は幸若舞「敦盛」のこの場面を戦場に向かう前に謡い、舞った。さらに「死のふは一定、しのび草は何をしょぞ、一定かたりをこすのよ」の小唄を口ずさみ、信長の孤高の姿が多くの日本人の共感を呼んだ。

 「桶狭間」は対米開戦を前に、日本軍参謀本部は真珠湾攻撃を行う際、奇襲攻撃と短期決戦、なによりも寡兵よく大敵を破るという作戦を説明するたとえに使った。信長を日本、義元をアメリカという大国の強敵にたとえた。

 だからこそ、日本人は信長を好んだ。日本国民の多くがヒーローとして信長をたたえる大きな理由は「桶狭間」である。義元はその敵役であり、大軍を率いる凡庸な武将としてのイメージが持たれてきた。

 そのイメージは間違ったものであり、義元のイメージを変える目的の大イベントが静岡市で開かれる。

「今川復権まつり」でイメージは変わるか

 「今川義元の『桶狭間の戦いで大軍を率いながら、少数の織田信長に討たれた公家風の大名』というイメージは後世に作られたもので、実際は領国経営に優れた優秀な戦国大名」。今川義元生誕5百年祭のチラシにびっくりした。「領国経営に優れた戦国大名」を強調しなくても、静岡大学名誉教授の小和田哲男著「駿河今川一族」など戦国大名今川氏の研究でたびたび紹介されてきた。「桶狭間の戦いで大軍を率いながら、少数の織田信長に討たれた公家風の大名」は後世につくられたイメージだったというのである。

 今川義元生誕5百年祭は、今川研究の第一人者、小和田氏が委員長となり、駿府城公園でイベントを繰り広げる「今川復権まつり」(5月3日~6日)をはじめ、「東海の覇者 今川義元と駿府」展(静岡市文化財資料館ほか)「今川シンポジウム」(静岡市民文化会館)などを大々的に開催、今川義元の功績を再評価、後世につくられたイメージを変えるのが目的となる。

 「桶狭間の戦いで大軍を率いながら、少数の織田信長に討たれた公家風の大名」。「今川復権まつり」で日本人に長く定着した義元のイメージを変えることができるのか?

川勝知事が「桶狭間」での家康の働きぶりを紹介

 歴史は、後世の者たちによってつくられていく。虚々実々に粉飾され、事実とは遠いところにあるのかもしれない。かっこういい信長の対極に位置する敵役の義元のかっこう悪いイメージを変えるのは並大抵ではない。

 今川氏研究を長年行ってきた小和田氏にはその成算を胸に秘めて、このような大胆なチラシを作成したのだろうか?

 今川義元公生誕五百年祭にちなんで、小和田氏が執筆した「駿府と今川氏」、さらに3月23日出版された「今川義元 知られざる実像」(静岡新聞社)を読んでも、イメージを変える戦略はどこにも紹介されていない。

 そうだ、今川氏を滅亡させた甲斐の武田を滅ぼしたのは徳川家康である。今川方の一員だった家康は「桶狭間」でどのように戦ったのか?小和田氏の著作では、「人質」として駿府で義元に庇護されたイメージばかりで、「桶狭間」の家康の戦いぶりは紹介されていない。

 いろいろ調べていくと、「桶狭間」で家康の役割を最も知るのは、川勝平太静岡県知事だった。1984年川勝知事が訳書として出版した「鉄砲を捨てた日本人」(ノエル・ペリン著)で、「桶狭間」での家康の働きぶりを明らかにしていた。

丸根城を陥落させた家康の戦略

 「おそくとも1560年になる前から、大きな合戦では鉄砲の使用が始まっていたとみられる。というのも、同年、完全武装の武将(佐久間盛重)が鉄砲傷がもとで生命をおとしている」。本文の「注」を読んで驚いた。「武将佐久間盛重は丸根城を陣頭指揮していたが、1560年6月22日(西洋暦で和暦の5月18日)、同城は徳川家康に攻略された。この時、家康は『火縄銃の集中攻撃をたくみに利用した』。鉄砲の伝来から17年後のこと」。同書では「桶狭間」ではなくその前哨戦で、鉄砲を使って勝利を収めた家康の戦いぶりに注目していたのだ。

 川勝知事の訳書をきっかけに「徳川実記」などで、「桶狭間」の家康の戦いぶりを調べた。

 丸根城は沓掛から桶狭間を経て、大高城を見下ろす位置。そのまま放置すれば、丸根城から今川本隊へ思わぬ攻撃を受ける恐れがあった。織田方の大将、佐久間盛重は城を完全に締め切り、万全の防備を敷いた。家康は真正面から攻撃を仕掛けるが、苦戦、膠着状態が続いた。家康の劣勢を好機と見た盛重は城を打って出て突撃を指示する。

 突然の総攻撃に家康軍はずるずると後退、盛重軍は勢いづいて攻撃を加えた。ところが、家康は先鋒の後ろに鉄砲隊を用意していた。運良く、一発の銃弾が盛重に命中、敵方の大将が馬から転落した。それを見て、家康軍は盛重に殺到、盛重の首を取る。敵の大将首が振り回され、家康側は逆転、織田方は総崩れとなり、丸根城を陥落した。鉄砲による勝利をもたらした初の事例として「鉄砲を捨てた日本人」で高く評価された。

 桶狭間に陣を構えた義元に家康は勝利を報告、今川隊は歓喜に包まれる。義元は家康に大高城に入り、休養するよう命じた。その半日後、信長の騎馬隊が桶狭間を襲い、義元の生命を奪う。

 そうだ、今川義元のイメージを変えるのは家康だったのだ。家康はその後、どのように「今川復権」に奮闘したのか?

泉岳寺は義元を祀るために家康が創建

 「桶狭間」で義元が非業の死を遂げたあと、家康は4日後に岡崎城に戻っている。その4日間に何があったのか史実では語られない。翌年には信長と和睦し、その後の家康の活躍が続いていく。

 家康と今川氏の関係がどのように続いたのか、頭から離れなかった。「桶狭間」当時、19歳だった家康は、駿府の「人質」時代の9歳から青年期まで10年間を育ててくれた義元を敬愛、その恩義を忘れなかったはずだ。

 先年東京・高輪の泉岳寺を訪れたとき、その案内板に書かれている事実を見て、家康が義元への恩義を形に表わしたことを初めて知り驚いた。

 慶長17年(1612年)泉岳寺を創建したのは家康であり、開山は今川義元の孫、門庵宗関(もんなん・そうかん)。泉岳寺と言えば、毎年12月14日の義士祭に数多くの人々が訪れる人気スポットだ。

 門庵宗関は今川氏研究の第一人者、小和田氏の「駿河今川一族」(新人物往来社)、大石泰史氏の「今川滅亡」(角川選書)などに登場してこない。どのような人物であったのか不明であり、研究も進んでいないようだ。江戸長谷寺、豪徳寺を開山したことは分かるから、当然実在の人物であり、泉岳寺の案内板にあるように義元の孫である。(タイトル写真は泉岳寺の楼門)

 何よりも、泉岳寺は義元を祀るために家康が創建したのだ。「泉岳寺」と義元の関係は、いまや顧みられることはない。あまりに大石内蔵助ら赤穂義士が有名で、義元、家康との関連などだれも気付いていないのだ。

 慶長17年(1612年)4月義元の長子、氏真が駿府の家康を訪ねている。氏真75歳、家康71歳だった。武田方に氏真の今川家が滅ぼされたあと、家康は物心ともに氏真を支えた。京都に住む氏真は父義元のために創建された泉岳寺を訪れるのが目的で下向する途中だった。

 創建当時の泉岳寺は品川にあり、1641年の大火で焼失した。三代家光は再建を指示、浅野家などが当たった。そして、元禄時代赤穂義士の討ち入りの物語の舞台となり、いまや日本人ならばだれもが知る場所となった。

泉岳寺の新たな魅力を売り込め

 戦前、日本の敵だったアメリカのイメージをつくったのは日本軍参謀本部である。それに伴い、「桶狭間」の信長、義元のイメージもつくられた。戦後になり、アメリカのイメージは大きく変化した。「アメリカの文化」に多くの日本人が熱狂した。アメリカのイメージを変えたのは大衆だった。

 残念ながら、歴史学者は歴史の事実を追うことはできても、歴史人物のイメージを変えることはできない。まずは、川勝知事の訳書「鉄砲を捨てた日本人」から「桶狭間」ではなく、家康の攻めた「丸根城」こそが世界レベルでは大きな注目を集めていることをより多くの人たちに知ってもらうべきだ。

 今川義元と泉岳寺を結ぶ大きな太い線をたどるとき、全く違う義元像ができあがってくるだろう。12月14日の義士祭を中心に多くの日本人が訪れる泉岳寺は、義元、孫の宗関、家康とを結ぶ場所であることから始めれば、多くの日本人がその意味を理解するだろう。

泉岳寺の大石内蔵助像

 忠臣蔵ゆかりの「仇討ち」で本懐をとげた赤穂47義士が主君浅野内匠頭の墓前に大石内蔵助らが報告に訪れた泉岳寺は、「桶狭間」で非業の死を遂げた義元の霊を祀るとともに、家康が天下統一を成し遂げたあと、少年期から青年期まで駿府で過ごした平和な10年間を国全体にもたらすことを誓った場所でもあるのだ。

 義元のイメージを変えるためには、田辺信宏静岡市長は川勝知事と手を結んで、家康が創建、義元をまつる泉岳寺の新たな魅力を売り込むところから始めたほうがいい。

(次回2は2020年設置予定の今川義元像について説明します)

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