「世界一汚い山」富士山は変わったのか?

富士宮口五合目で雲海を楽しむ

 台風5号の影響が心配された19日、富士山富士宮口五合目を訪れた。富士宮市内に入るとどんよりとした雲が覆い、時折小雨模様だったのが、富士山スカイライン入り口付近まで来ると、真っ白な霧に覆われ、全く視界が効かなくなってしまった。もうこれではあきらて帰るしかないかと考えて、係員に相談すると、午前中いっぱいであれば、台風の影響も少なく、安全に走行すれば大丈夫とのことで、五合目を目指すことにした。

雲海に浮かぶような五合目のレストハウス

 二合目、三合目はライトを点灯して、速度40キロを守り、慎重に慎重を重ねて走行していき、四合目付近を過ぎるとさっと霧が晴れ、青空が見え始めた。五合目に到着すると、眼下には見事な雲海が広がっていた。五合目レストハウス展望台で、まるで頂上からご来光を仰ぐのと同じ感動的なシーンに出会えたのだ。雲上人の気分を五合目で味わうことなどめったにないだろう。台風による風雨の恐れもあるのに、五合目には、これから頂上を目指す数多くの登山客が詰め掛けていた。下界とは違い、思いがけない晴天に美しい雲海と来れば、すっかりと富士山の魅力にとりつかれてしまっていた。夏休み前なので、子供たちの姿はなかったが、中国人を中心とした外国人や中高年のグループが次から次と到着していた。

 早速、取材の目的である「トイレ」を探した。

25年前「世界一汚い山」と呼ばれていた

台風5号の影響もなく、頂上を目指す登山客

 25年前、1994年に「富士山の世界遺産化運動」に取り組んだ。当時、環境庁の「富士山地域快適利用対策調査」(1991、92年度管理方針検討調査)で、富士山の過剰利用の実態が明らかにされた。年間約3千万人が山麓一帯を訪れ、そのうち約400万人が五合目まで、さらに約30万人が頂上を目指していると推測、そのためにさまざまな環境問題が発生していた。トイレについては、トイレ数の不足、汚れや臭気、し尿の垂れ流しなどが大きな問題になっていた。

 「富士山は世界で最も汚い山だ。あまりにも多くの人が押し寄せ、ごみだらけでおしっこの臭いが充満している」。エベレストなど世界各地の山々を経験する神奈川県藤沢市の冒険家九里徳泰さんが言ったことばを思い出す。その4年前に富士山に登ったときの感想であり、もう2度と富士山には登らないと苦い顔をした。その後、九里さんは環境工学の研究家として大学教授に転身した。

 「世界一汚い山」。そんなひどい評判を何とかするために環境庁は静岡、山梨両県、関係市町村と検討会を設けたのだ。山小屋から垂れ流しにされたおしっこの臭いが充満し、トイレの評判は最悪だった。

 トイレだけでなく、夏山シーズンのたった2カ月間で約510トンというごみの山が登山者から捨てられ、いかに登山者のマナーが悪いかを知ることができた。

 遠くから見れば、日本一美しい山は、登ってみれば日本一、いな世界一汚い山という悪評を何とかしたい。そのために、当時まだなじみの薄かったユネスコ「世界遺産」として守ろうという運動に乗り出した。

過剰利用による最も危機的な国立公園

 1972年世界遺産条約はユネスコ総会で採択されたが、日本が条約を批准したのは、わたしたちの運動がスタートするたった2年前、1992年9月だった。条約批准前、外務省など関係省庁連絡会議が開かれた。内部資料を見ると、政府は自然遺産候補に「富士山」を入れていた。しかし、環境庁、文化庁とも富士山の世界遺産については全く消極的だった。

 富士山地域の世界遺産化について、文化庁は「『類例を見ない自然の美しさ』(自然遺産の登録基準)にあてはまるが、富士山の自然美を形成しているのは裾野を含めた広大な地域であり、文化庁の所管する特別名勝はほぼ五合目から頂上までの狭い範囲であり、富士山の自然美を形成するには不十分」として、環境庁の対応を求めていた。

 自然遺産を担当する環境庁は「これだけ利用が進んでいる地域について、将来にわたっての保護体制の責任を持つことはできない」など課題が多いことを挙げ、国内候補地推薦はできないと逃げた。

 政府が世界遺産リストへの推薦をする場合、遺産を保護、保全、整備して将来の世代へ伝えることが義務であり、国内法での担保を求めていた。日本の場合、世界遺産の保全について「文化財保護法」「自然環境保全法」「自然公園法」の三法によって確保されるとしていた。

五合目レストハウスの登山客。過剰利用の解決は入山規制しかないがー

 三法の網が掛かる富士山地域なのに、厳しい保全規制などを取ることができないまま、公園目的以外の利用が許容され、さまざまな観光開発が進められてきた。ごみ、トイレなど登山客に対する規制もないまま、長い間、放置され、「世界一汚い山」となり果ててしまった。1989年IUCN(国際自然保護連合)は、過剰利用による世界で最も危機的な国立公園として富士箱根伊豆国立公園を指定した。

 自然遺産の審査を担当するIUCNが、「世界一汚い山」富士山の世界遺産推薦を認めるなどありえないことを環境庁は承知していた。だから、環境庁、文化庁とも富士山の世界遺産推薦に否定的にならざるを得なかった。

富士山と世界遺産をつなぐ署名運動

 わたしたちは静岡、山梨両県の自然保護団体に呼び掛けて「富士山を世界遺産とする連絡協議会」を設置、「100万人」を目標とする署名運動を1994年2月から6月までの4カ月間実施した。トイレ、ごみのほか、さまざまな自然環境問題が発生していたが、「世界一汚い山」と「世界遺産」を結び付けることで多くの人たちの関心を呼ぶことができた。

保全協力金バッジ「美しい富士山を後世に残そう」

 「日本の象徴、富士山を世界遺産にしたい」。そんな簡単な呼び掛けではあったが、自然保護を推進することで地域経済にマイナス影響を与えることを危惧する声は非常に強かった。しかし、それ以上に富士山を守りたいという人々の願いは大きく、たった2カ月間で約240万人もの署名が寄せられた。この署名運動の広がりで「富士山」と「世界遺産」は一体化した。しかし、文化庁、環境庁だけでなく、静岡、山梨両県とも長い間及び腰であり、「世界遺産」という目標は非常に遠かった。

 それから紆余曲折の20年を経て、2013年6月カンボジアで開かれた世界遺産委員会で富士山は「文化遺産」として認められた。

 長い間、つきあってきた文化庁担当者は「これから富士山の保護、保全が本格的に始まる」と話してくれた。富士山の場合、世界文化遺産に登録することによって、富士山の価値を伝えるための取り組みがスタートしたのだ。

 富士山が世界遺産にならないのは、「トイレ」のためだという厳しい批判もあった。さて、どのように変わったのか?

トイレは非常にきれいになったが…

最先端だった節水型トイレは閉鎖されていた

 25年前、富士宮口五合目には節水型の山小屋モデルトイレが設置されていた。牛乳瓶1本で水洗効果があるトイレが導入されたばかりだった。汲み取り式に比べ、清潔で悪臭は減ったが、貯まった便槽の汚物処理は最終的に流すしかなく、根本的な解決にならないとされていた。

山小屋とは思えないきれいな小便器が並ぶ

 それがいまから15年ほど前からバイオトイレなどの処理形式に替わり、順次山小屋にも導入された。今回五合目レストハウスのトイレは床、壁、天井の補修、塗装が行われ、男子用小便器10基などが取り替えられ、便器はすべて洋式化され、きれいになっていた。

 五合目から登って3分ほどのところにある環境省のトイレも非常にきれいになっていた。チップ制トイレは山小屋でも行われているようで、山小屋のトイレは登山客だれにでも開放されているが、200円から300円を徴収している。五合目のレストハウス、環境省のトイレともチップ制にはなっているが、五合目の富士山保全協力金ほどには、周知されていないようだった。

 世界遺産運動当時に直面したさまざまな課題は解決していないことのほうが多いが、まあそれでも25年前に比べれば、トイレだけでもはるかにきれいになっている。世界遺産の効果は大きいのかもしれない。日本人の「信仰の対象」「芸術の源泉」という非常に難解な文化遺産では、富士山の保全にはつながらないと考えていたが、一歩ずつではあるが、日本人の誇りとしての「富士山」に近づいているのかもしれない。

 江戸時代から続く富士講行者たちの富士賛歌に「富士の山登りてみれば何もなし、よきもあしきもわが心なり」とある。そのような境地で富士登山をする人たちが増えることを願うばかりだ。

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