「文化が好き」ー静岡市長への批判?

清水経済人「文化じゃ飯が食えない」

 2月10日日本経済新聞全国版に静岡市美術館の展覧会「起点としての80年代」のカラー5段広告が掲載された。ちょっと驚いて、当日昼頃、市美術館に出掛けた。日経の広告5段カラー面掲載料は約1200万円と非常に高額だ。入場料1100円だから、この広告を見て1万人以上が入館しなければ、採算は合わない計算になる。会場はぱらぱらとしていて、広告の効果はあまり感じられなかった。

 「文化じゃ飯が食えない」。その言葉が頭に浮かんだ。もし、正規の広告料金を払って、それに見合う入場客を期待したとしたら、展覧会が赤字となったとき、担当者は責任を負わなければならないのか。展覧会の赤字で担当者の責任問題に発展することなどない。展覧会は「文化」であり、お金という尺度で計算しないようだ。

 2月5日朝日新聞朝刊の記事。「田辺(信宏)市長は企業誘致に関心がない。歴史文化、教育文化と『文化』が好きだからね。それじゃ飯が食えない」と皮肉を込めた批判を、清水区の経済人が言ったようだ。難波喬司副知事の市長選不出馬会見の関連記事だが、「文化じゃ飯が食えない」批判が気になって、頭から離れなくなった。

 展覧会チラシには「インスタレーション」「メディア・アート」「オルタナティブ・スペース」「メディウム」など難解なカタカナ英語が羅列され、ほとんどの作品が言葉通りの難解さをまとい、感動や共感も得ることができなかった。「文化で飯が食えない」かもしれないが、それでは「文化」とは何だろうか?

地下街のガス爆発事故の記憶

 美術館を出て地下街を歩いていて、ああそうか、あの展覧会は時代を全く理解していないことに気づいた。静岡市にとって「起点としての80年代」が何かを考えずに、他からの借り物のような外国語で飾った芸術家たちの展覧会をやっても共感を得ることはできないからだ。

 アインシュタインの有名な「相対性」理論。簡単に言えば、「相対性」とは主観的な時間で、つまらない学校の授業は退屈で時間は長いと感じる、一方、美しい絵画を恋人と見る時間はあっという間に過ぎる。「退屈」と「夢中」の時間の長さで「相対性」を説明した。「文化」も相対的なもので、感じ方はみな違うのだが、あまりに難解ならば苦痛を強いる長い時間と感じる。理解不能なカタカナ英語をやめて、やさしい言葉で説明することはもちろんだが、みな共通の「問題意識」を投げ掛ければ、多くの人は夢中になるはずだ。授業も教え方ひとつで変わってくる。

 その問題意識が、静岡市にとっての「1980年の起点」だ。それは何だったのか?

 1980年8月16日。静岡駅前地下街でガス爆発事故が起きた。15人死亡、223人重軽傷という大惨事。忘れているだろうが、歴史的な事件として記録されている。その現場となった付近は、どういうわけかシャッター通りになっていた。日曜日なのに人通りは非常に少なく、まるで40年近く前の記憶がその周辺に残っているようだ。真っ白なシャッター通りが「80代年への扉」だ。タイトル写真の白いシャッターはまさに「インスタレーション」作品そのものではないか?

 美術館のすぐ近くに、「Starting points:Japanese of the ’80s」ではなく、「Shizuoka of the ’80s」という「80年代の扉」がある。あの日の煙やにおい、消防車、救急車のサイレン、爆発による道路に散らばったガラス破片など静岡の人たちの記憶に残っている。その2日前の14日には富士山で大落石があり、12人死亡、35人重軽傷の事故も起きていた。思い掛けない大惨事と「文化」を結んでいたものは何だったか?静岡の「80年代の扉」をみなが知っているのだから、美術館の「80年の文化」にはインパクトを感じないのだろう。

40年前の村上春樹の評価 

1979年群像6月号から

 1979年6月に第22回群像新人文学賞が発表された。受賞作は村上春樹「風の歌を聴け」。わたしにとっての80年代の始まりは、この作品からだった。審査員は丸谷才一、吉行淳之介、島尾敏雄、佐多稲子、佐々木基一。「何が書いてあったのか覚えていないが、おもしろかった、2度読んだ」という評が大勢を占めた。「ポップアート」みたいな印象であり、しゃれたTシャツの略画まで挿入されていたと老人たちはみな驚いたが、当時はまだ「文化」と見なされなかった。

 芥川賞審査員の丸谷をはじめ、村上の処女作を無視した。長い間、日本の文壇では村上の存在を無視し続けたが、米国ニューヨーカー誌をはじめさまざまな国で翻訳され、高い評価を受け、ノーベル文学賞の有力な候補になった。当時の文学賞審査員の先生方はみな亡くなった。村上は彼らと違い、芥川賞もその他日本の文学賞も関係なかったが、いまや世界の注目を集める「文化」の中心人物となった。「文化」そのものが変わったのか。村上の文学は初めから同じで、何も変わっていないが、わたしたちは過去から続くすべての背景を知っている。それが「時代の文化」だ。

駿府公園に県立美術館?

この辺りに県立美術館を建設する予定だった

 もう1つの40年前の話だ。静岡県議会百年記念事業として県立美術館建設の計画が持ち上がった。静岡市は県都である駿府公園に建設するよう要望、静岡経済界の代表らが委員会をつくり、1980年7月駿府公園への建設が決まった。ところが、まず、駿府城天守台が発見され、すこし北側に建設地を移して建設することになった。

 2年掛けて発掘調査を行ったところ、今度は戦国時代の庭園跡を発見、今川館跡の可能性が高くなった。とうとう県立美術館は現在地の静岡市谷田に変更された。県立美術館が建設されていたら、3年前から始まった天守台跡発掘などなかっただろう。

 そして、「日本一大きな天守台」や「金箔瓦」が発見され、来年度5百万円の予算で天守台遺構をどのようにするのか検討していくことになった。当然、発掘した遺構をそのまま”フィールドミュージアム”として活用することはできない。風雨など自然的な影響を考えれば、最善の保存は埋め戻すしかない。当初の天守台再建計画を見直せば、4百年前の天守台を見学できる屋根つきの大型施設建設へ舵を切ることになる。莫大な予算が必要になる。

 さて、どうするのか?

 先日田辺市長と話す機会があったが、いくら「文化が好き」市長でも美術館開催の展覧会同様にすべてのことを承知しているはずもない。すべては職員からの情報(よい情報も悪い情報もある)を基に判断するしかない。市長ならば地下シャッター街をどのようにするか経済の問題ではなく、文化の問題と見ることもできる。駿府城跡地についても、同じことだが、最終的な判断は市民の代表、市長にゆだねられる。責任は非常に重い。

 ただ、静岡県も静岡市も、40年前、駿府城公園に県立美術館を建設する計画を立てた事実を忘れている。川勝平太知事は、静岡市の歴史博物館計画に批判的だ。40年前、なぜ、駿府城公園に県立美術館をつくろうとしたのか、もう一度、整理していけば相互の役割が見える。そうあってほしい。

 難しいカタカナ英語ではなく、わかりやすいことばで両者が話し合えば、40年後には、”共創”でできあがった立派な文化施設が海外からの観光客をはじめ多くの人に感動を与えるだろう。ただし、この問題はいま考えなければならない。

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