駿府城天守台は”日本一” なぜ、国の史跡ではないの?

「秀吉の天守台」発見の意味は?

 静岡市の駿府城公園で調査が進む家康大御所時代の駿府城天守台発掘現場へ行った。そこで配布された資料に『秀吉の天守台』と書かれていた。秀吉が駿府城を築城した事実はない。この意味は、中井均・滋賀県立大学教授コメントの「天正18年(1590)に豊臣秀吉によって駿府に入れおかれた中村一氏(かずうじ)が秀吉の支援を受けて築いたものであることは間違いない」によっているらしい。どう考えても、『秀吉の天守台』という表現は正確ではない。

 1590年秀吉は小田原の北条を攻めて滅亡させ、家康は関東8カ国、近江・伊勢などの支配に配置替えにされる。8月家康は江戸城に入る。それに伴い、秀吉の重臣中村一氏が駿府17万5千石の大名となる。その後、1600年一氏の子、中村忠一(ただかず)は駿府より伯耆米子17万5千石に移る。1601年駿府城に内藤信成が入り、4万石大名となった。

 秀吉に比べて、中村一氏の知名度が低いとはいえ、17万5千石の立派な大名であり、静岡市が作成した資料の『(秀吉の)子飼いの部下』や『秀吉の天守台』という表現は、中村一氏に少し失礼ではないか。

 今回発掘の新発見は、中村一氏時代の駿府城天守台跡、そこに使われた「大量の金箔瓦」(約330点)だそうだが、金箔瓦の展示はなかった。ことし2月に報道された「日本一の大きさ」の天守台が気になっていて、今回はまず、家康時代の天守台跡を確認して紹介したい。

国指定の史跡として活用を

静岡市作成のパンフレット

 駿府城天守台発掘調査寄付金募集のパンフレットに「江戸城よりデカいかも?」というキャッチコピーが踊っていた。駿府城天守台は約68㍍×約61㍍あることが発掘調査でわかり、約45㍍×約41㍍の江戸城天守台より「デカい」ことがわかり、静岡市では「日本一」とPRしている。

 駿府城再建を求める市民運動の声に押され、3年前、田辺信宏市長は天守台発掘調査事業をスタートさせた。発掘現場見学会で、テレビインタビューに男子小学生が「こんなすごいものがすぐ近くにあってびっくりした」と自慢げに答えていた。さまざまな新発見が続き、市民の関心は高くなり、駿府城史跡の歴史的意義は大きくなっている。

 「日本一」について、「昭和6年(1931)大阪市民らによって建設された大阪城の下に埋まっている秀吉、秀頼時代の大坂城はもっと大きかった可能性もあるのでは?」と市担当者に質問した。担当者は「日本一」の定義を、「現在わかっている範囲で”日本一”」と訂正してくれた。

 すばらしい発掘の成果にけちをつけるようで申し訳ないが、歴史事実は非常に難しい。ノーベル賞を受賞した本庶佑氏も「教科書にあることを頭から信じない」と述べた。教科書だからと言って鵜呑みにすることの危険性を述べたのだろう。ものごととは多角的な方向から検証すると、一つの事実だけでなく、さまざまな方向から違う“事実”が見えてくる。ときには、正反対の事実もある。

 静岡市民にはいろいろな意見を持つ人がいる。駿府城天守台跡発掘によって、駿府城公園をどのように活用していくのか課題になるが、市民の誇れる場所として全国へ発信してほしい。現在の都市公園ではなく、”国宝”と同じ意味を持つ国史跡文化財とすべきではないか。一長一短があり、まさに議論がわかれるところだが、”日本一”の天守台を見るために全国から多くの観光客らが詰め掛ける場所にしてほしい。

 

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *