幻の駿府城 絵図はあくまでも絵図

浮世絵で知る新事実

浮世絵に描かれた久能山

 3年前、浮世絵「東海道名所之内 久能山」(一蘭斎国綱画、大錦判)を購入した。文久3年(1863)14代将軍家茂の東海道上洛の様子を伝える全162景のうちの1枚である。明治維新まで25年を残し、この上洛は150万両(現在の約1500億円以上に相当)の経費を掛けた徳川幕府最後の国家的行事だった。

 なぜ、久能山東照宮に家茂ゆかりの甲冑、陣羽織、胴着などが数多く残っているのか。そんな疑問を長い間、抱いていた。この浮世絵を手にして、初めてその理由がわかった。

久能山東照宮所蔵の馬面

 江戸を出発後、22日間掛けて京都まで到着するのだが、三代将軍家光以来の229年ぶりの上洛であり、当然、久能山東照宮頂上付近にある家康の墓に詣で、自身に関わるさまざまな武具類を奉納したのだろう。久能山東照宮に残る金色に輝くユニークな「馬面」は、午年生まれ、馬顔、その上、乗馬が大好きだった馬公方とも呼ばれる家茂にふさわしいゆかりの品であり、ぜひ、久能山を訪れた際にはご覧になってほしい。

駿府の街並みには天守閣が似合う

「東海道 府中」の街並み

 浮世絵「久能山」とともに、同じ東海道上洛図の浮世絵、駿河の府中、駿府の街並みを描いた「東海道府中」(一光斎芳盛画、大錦判)を同時に購入した。長い行列の向こうに富士山が大きく描かれ、その左隅に2つの城があったのに興味を引かれた。駿府城の天守閣であろうか。東海道上洛図は、二代豊国(歌川国貞)を総帥として16人の絵師が将軍家茂一行に随行して描いているから、浮世絵らしいデフォルメ(誇張表現)はあったとしても当時の様子をほぼ正確に伝えているのだろう。

 しかし、1635年に駿府城天守閣は焼失して以来、再建されていないから、その浮世絵に描かれた城郭は天守閣ではないのか。あるいは、絵師の創造力がいまはなき、天守閣を再現したのか。絵図は写真ではないのだから、本当に難しい。

駿府城外観に有力証拠?

静岡新聞で報道された駿府城絵図

 さまざまな駿府城が描かれてきた。2011年10月30日付静岡新聞に「駿府城外観に有力証拠」という大きな記事が掲載された。日光東照宮所蔵、紀州東照宮所蔵の東照宮縁起絵巻に2人の絵師が描いた駿府城の構造、装飾が酷似しているというものだった。1640年ころの御用絵師による2つの絵図は、やはり、天守閣焼失以後の作品であり、どこまで史実に即しているのか難しい。

 1707年ころに土佐光起によって描かれたとされる「駿府城下鳥瞰図」(駿府博物館蔵)に天守閣は存在しない。これは間違いなく正しい。

日本一の天守台を生かすには

地元の画家による駿府城再現図

 極めつけは市民ら有志による駿府城天守閣再建を求める看板に描かれた駿府城は堂々たる構えで非常に美しい。水彩画の原画も見たことがあるが、画家の創造力と想像力のたまものである。

 静岡市の田辺信宏市長は4年前、「正確な史料なしに天守閣は再建すべきではないという公式見解があったが、リセットする」と明言して、発掘調査を指示した。そして、「日本一規模の天守台」をはじめ、さまざまな新発見があり、どのように保存、利用するかの議論がスタートする。発掘によって得られた事実を基に、どのように対応するかを話し合うべきであり、絵図は絵図でしかない、絵師のたくましい想像力によって出来上がったものかもしれないのだ。そのことを肝に銘じて、議論にのぞんでほしい。

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