川勝知事、「文化力の拠点」どうしますか?

宮沢賢治と清水三保海岸の関係は?

 2月27日の静岡県議会代表質問では、自民党県議団の野崎正蔵氏が「文化力の拠点」事業を巡り、他会派の予算要望で川勝平太知事が「ごろつき」「やくざ」「反対する人がいたら県議の資格はない」などと発言したことを看過できないとして追及した。

野崎県議の代表質問

 野崎氏は冒頭、『「遊ぼう」っていうと 「遊ぼう」っていう。「馬鹿」っていうと 「馬鹿」っていう。(略)「ごめんね」っていうと 「ごめんね」っていう。 こだまでしょうか いいえ、誰でも』など感情を込めて、金子みすゞの詩「こだまでしょうか?」を朗読した。

 三重県の鈴木英敬知事へ、川勝知事の「嘘つきは泥棒の始まり」発言があったことを踏まえ、「ごろつき」「やくざ」発言が川勝知事への”ブーメラン”となり、こだましたのか?野崎県議はその詩を読んだあと、約10分間にわたり舌鋒鋭く批判を続け、最後に「自らの言動をどのように総括して、身を処するのか、見解を示せ」などと締めくくった。

 川勝知事は金子みすゞとともに、なぜか宮沢賢治にも触れたあと、自身の発言を深く反省、心からお詫びするとしてひと言「ごめんなさい」と述べた。

 その謝罪発言を聞いていて、ああ、そうか、川勝知事は「文化力の拠点」を忘れていないのだ。頭の片隅のどこかにちゃんと残っているのかと驚いた。

 金子みすゞは26歳で自死した。宮沢賢治は37歳のとき、肋膜炎が原因で亡くなっている。二人とも若くして亡くなったとともに、生きている間に作品の評価は受けず、無名のまま亡くなっている。「私と小鳥と鈴と」「大漁」など金子みすゞの詩は35年ほど前、ある児童文学者の再評価によって瞬く間に多くの人たちの心をつかみ、いまも愛され続けている。

1967年発刊の宮沢賢治「手帳」復刻版

 宮沢賢治も生前、詩集「春の修羅」、童話集「注文の多い料理店」のみが自費出版された。亡くなったあと、弟の宮沢清六らが「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ…」などが記された手帳を発見、その精神性の高さを哲学者、谷川徹三(詩人谷川俊太郎の父親)らが高く評価、すべての日本人が一度は口ずさむであろう最も有名な詩となった。だから、賢治存命中には、その詩の存在を誰も知らなかった。

 賢治が静岡県を訪れたことも知られていない。26歳のとき、清水の三保海岸を訪れたのである。

「はごろも海岸」という美しい名前

 賢治は、宗教家、田中智学の興した法華宗を信仰する在野の仏教団体、国柱会に入会した。大正時代、国柱会の本部・最勝閣は清水にあり、国柱会HPには、「大正11年(1922)11月に亡くなった妹トシの遺骨は三保最勝閣へ賢治が持参した」と簡単に記されている。

 調べていくと、岩手・花巻で行われたトシ(享年24歳)の葬儀には宗旨(実家は浄土真宗)が違うため出席しなかった賢治が火葬場に現れ、遺体が焼かれている間、法華経を読み続けたという。分骨された遺骨を、丸い小さな缶に大切に入れて、翌年、御殿場回りの東海道線を利用、納骨のために清水を訪れた。ただ一度の静岡への旅行である。

賢治は熱心な法華経信者だった

 その年、賢治は北海道・青森を旅行、トシの早逝を深く悼み、長編詩「オホーツク挽歌」「青森挽歌」を書いている。三保海岸を訪れた際の詩や随筆、手紙は散逸し、未発見のままである。賢治は常に鉛筆と手帳を携えており、行く先々でメモを書いた。鉄道の便が悪い当時、清水までの長い時間、多くのことを記したはずである。賢治自身で手帳の多くが破棄されてしまった。

 26歳の賢治が目にした美しい三保海岸はその後変わっていく。田中智学は清水地域の工業化を嫌い、国柱会本部を東京へ移転した。最勝閣などの建物の痕跡は一つも残っておらず、トシの埋葬場所など賢治が訪れたことを示す記憶は清水には何もない。

 そしてもう一つ。賢治が訪れた当時、清水三保海岸は「はごろも海岸」と呼ばれていた。いまや、だれもその記憶はない。

文化力とは地域の発する地域のイメージ

 「はごろも」は、2014年9月8日に開かれた第1回静岡東駅地区の整備に関する有識者会議で話題の一つになった。当時、静岡県立美術館館長を務めていた芳賀徹先生がさまざまな議論のあと、あえて「はごろも」を使った。

 『三保松原のはごろもの伝説、美しいですね。富士山のいろいろな信仰の対象、芸術の対象、聖徳太子あるいは日本武尊を中心とした一種の神話の力がどこかで宿されている。それをまとめて「はごろも地域」ですか?』。2007年から県立美術館長を務め、この地域を愛した芳賀先生らしい意見を述べた。

日本平からの富士山

 東静岡駅周辺から日本平を経て、清水三保海岸を結ぶ広い地域をどのように整備していくのかが議題だった。そもそも、そこで初めて「文化力」について議論されたのだ。芳賀先生が『「文化力」とは何ですか?「文化の拠点」と違うのですか?文化と文化力の違いがわかりません』と尋ねると、川勝知事は「軍事と軍事力、経済と経済力と言った意味です」と答え、芳賀先生が「学問と学力が違うのと同じですね」と確認した。

 会議に出席した田辺信宏静岡市長が、JR東静岡駅の名前を「日本平久能山東照宮駅」に変更したいという提案に対して、川勝知事は「日本で一番長い駅名だけでも、そのイメージに発信力があります」などと述べ、「文化力」とはその地域が発する場の力やイメージ力であり、三保海岸の別名「はごろも海岸」はまさに、「文化力」を表していたのだろう。議論では、静岡が東京、京都、大阪などの地域に埋没して、個性を発揮できていない背景があると指摘していた。

 遠山敦子トヨタ財団理事長(当時)は『「文化力」という形で、(この地域の)明確な特色を出すべき』と進言した。6年以上も前のことである。

 東静岡駅地域の「文化力の拠点」事業は、今回の”川勝知事発言”を機に、一気に中止に追い込まれた。また、「文化力の拠点」にさまざまな意見を述べていた芳賀先生が2月20日、88歳で亡くなられた。そのまま、「文化力の拠点」事業も消えてなくなってしまうのか?

家康の眠る久能山東照宮も「文化力の拠点」

 芳賀先生は県立美術館長を辞したあと、2017年9月、「文明としての徳川日本」(筑摩書房)を出版されている。「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」「菜の花や月は東に日は西に」などで知られる与謝蕪村について詳しく書いている。「この海は昨日も一昨日も、そして今日一日もこうだった。おそらく明日も明後日もさらには来年も再来年もこうなのだろう」と「平和の退屈」さを「春の海」の句で説明している。徳川250年の平和な時代は終わり、幕末、動乱の予感が押し寄せていた。

2015年6月に開かれたシンポジウムで基調講演する芳賀徹先生

 パックストクガワーナ(Pax Tokugawana 徳川の平和)は、芳賀先生による造語であり、2015年6月、家康没後4百年を記念するシンポジウムでは基調講演を行った。

 家康は1613年、駿府で幕府直轄地のキリスト教禁令を行った。翌年には全国に発布する。『当時カトリック勢力のポルトガル、スペインは中南米で残酷な略奪、殺人を平気で行い、伝統的な文化を破壊してしまう。カトリック勢力の真の狙いを知らずに、九州の大名らはキリシタンにどんどん改宗していく、当時のカトリック勢力は非常に危険だった。

 家康のキリスト教禁令はまさにふさわしい賢明な対応だった。家康が外交顧問に重用したウイリアム・アダムスのもたらした情報が重要だったのだろうが、アダムスが経験豊富で実践的な航海士であったことが幸いした。また、大胆で勇敢なサムライだったからこそ、家康と信頼関係を築くことができた。家康外交によって、平和な徳川時代を築くことができた』。古文書を中心に読みこなす歴史学者では海外との交渉を行った家康外交の真実には言及できず、まさに芳賀先生の独壇場だった。

 家康の眠る久能山東照宮も「はごろも地域」の一角。「はごろも」はまさに、平和をイメージできる。

「おとなしい」静岡人は場のイメージでもある

 JR東海との「対話」が続くリニア問題で明らかになったのは静岡人の県民性であろう。「おとなしい」静岡人というイメージはそのまま、平和な静岡という土地のイメージそのものである。JR東海はまさか、静岡県で「反対」運動にも似た「闘い」に巻き込まれるなどとは思ってもみなかったのだろう。

 JR東海は「おとなしい」静岡人を見込んで、計画の当初から大井川中下流域の8市2町への説明等はなおざりにした。川勝知事は「おとなしい」静岡人の代弁者となり、「静岡県の6人に1人が塗炭の苦しみを味わうことになる。それを黙って見過ごすわけにはいかない」などと決然と立ち上がった。

 静岡県は恵まれすぎている。富士山、駿河湾、浜名湖、お茶、みかん、鰻、山葵、まぐろなど日本一がいくらでもある。宮崎県出身の久能山東照宮の落合偉洲宮司は「宮崎県人ならば久能山東照宮をもっともっと自慢している」と言った。家康没後4百年記念事業を機会に、久能山東照宮を日光東照宮に肩を並べるくらいの魅力を発信したい、とさまざまな事業に取り組んだ。静岡人は人は良いが、自慢嫌いの恥ずかしがり屋なのだ。川勝知事のような「おとなしくない」静岡人だからこそ、リニア問題では「闘える」のである。

 「ごろつき」「やくざ」発言はあったが、「文化力の拠点」事業について予算規模や中身がわからないという疑問を投げ掛けていた県議たちが事業そのものに反対というわけではない。金子みすゞを引用した野崎県議の質問も「文化力」にあふれていたのだ。だからこそ、川勝知事は誠意を持って「ごめんなさい」と謝罪したのである。

 芳賀先生の提唱したパックストクガワーナが始まった場所が駿府である。「トポス(ギリシア語の場所、そこから特定の連想を喚起する)の探求」を続けることを芳賀先生は願っていた。

 ことしはウイリアム・アダムスが亡くなって、ちょうど4百年。静岡にはあまりに、多くの「文化力」があるため、どこから発信していいのか分からない。ただ、せっかくの「文化力の拠点」をそのままやめてしまうのは残念でならない。

 川勝知事、「文化力の拠点」をどうしますか?

※亡くなる2年前、東京から帰郷する列車の中で書き綴った「雨ニモマケズ」を記した手帳は、復刻版として1300部限定で作成された。亡くなったあと、賢治のトランク蓋裏から、清六が発見していなかったならば、「雨ニモマケズ」の詩は世に出なかった。

※タイトル写真は、「はごろも海岸」越しの富士山を眺める

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