芸術家・藤枝静男を知ってもらうために

藤枝静男が墨書した平野謙の愛唱詩「冷やかに」

 昭和60年(1985)7月だった。『冷やかに水を湛へてかくあればひとは知らじな火を噴きし山のあととも』。藤枝静男さん自身が墨をすり、何度か新聞紙に試し書きをしたあと、わたしの持参したマット紙にさっと書き上げた。「詠 亡友平野謙愛唱詩」と添え書きした。自刻した印で落款を済ませれば完成だ。同じ詩を特製の原稿用紙に愛用の万年筆で何度か書いてもらっていた。墨書をお願いすると、何らためらうことなく受けてくれた。藤枝さんにとって、書くことも芸術創作のひとつだった。旧制高校時代からの親友、評論家平野謙の病床へ見舞った話もそれまでに何度も話題になった。

 当時、藤枝さんは78歳で、わたしは30歳が目の前だった。まだ若く未熟であり、酒を飲んでは、大声を出して、けんかをしたり、毎日が『火を噴いている』状態だった。まさに自分にふさわしいことばであり、すっかり気に入ってしまった。おカネでは買えないわたしの宝物のひとつとなった。

 詩の作者は生田長江という初めて聞く名前であり、翻訳、評論、小説などで明治、大正、昭和期に活躍、平塚雷鳥ら女性たちの支援者だったという。

 7月初め、浜松支社から沼津支社への転勤内示(8月1日異動)を受けてから、ほぼ毎日、仕事の合間をぬって、藤枝静男さんの自宅を訪ねていた。表通りの眼科医院の裏側で、藤枝さんは奥様が亡くなられてからは、母屋にただひとりで住んでいた。玄関で大きな声で訪問を告げてから、2階に上ると、いつでも「ああ、君か、また来たのか?きょうは何の話だったかな?」が決まり文句だった。時どき、お手伝いの女性が現れて、お茶を出してくれたりしたが、ほとんどは藤枝さんと2人だけの時間が流れていた。

 それまでの人生の中で、他人の話を聞くのが、こんなに楽しいと思えたことはなかった。こんなに素晴らしい経験と教養にあふれる人が世の中にいるんだなあといつも感心していた。

78歳当時の藤枝静男さん

 奈良の志賀直哉宅をはるばる訪れ、書画骨董好きの志賀さんのために購入したばかりの玉舟和尚の書を持参した話は文化欄の記事にした。せっかくの書を志賀さんからけちょんけちょんにけなされてしまい、差し上げるつもりだったのに、仕方なく、情けなく、浜松に持ち帰ったのだ。浜松在住の俳人、相生垣瓜人さんに上げたら、瓜人さんは大喜びされたのだという。記事では瓜人さんが玉舟のお礼に何かを贈ったことを書いたはずだったが、それが何だったのか、すっかり忘れてしまった。

 当時、藤枝さんが書いていた原稿の題名に『今、ここ』とあった。『今、ここ』とは、時間を止めることはできない、どんなに大切な時間でも限りがある。出会いのときめきもあるが、必ず、別れのときが来ることをテーマにしていた。

 平野謙愛唱詩も同じで、『火を噴いた』過去があり、いずれ、冷たい水をたたえる『今、ここ』の境地にいる。そして、この年になって気がついたのは、そのすべてが泡のように消えてしまうことだ。

「近代文学」の仲間たちとサワガニ

 もうひとつ、とにかく、藤枝さんは気前がよかった。

埴谷雄高も本当に元気だった

 その年の6月、舞阪町の弁天島で開かれた「近代文学」の仲間たちの会を取材した。長編小説「死霊」の埴谷雄高さんも出席していて、難解な思想小説の作者をイメージしていたから、とても怖い人かと思ったら、そんなことはなく、まだまだ『火を噴いている』最中のエネルギーに満ちた酔っ払いだった。藤枝さんより2歳若かったから、仲間たちの中でも人一倍元気だったのかもしれない。弁天島での年1回の仲間たちの会もすべて藤枝さんが提供していた。

 その年限りで、弁天島の旅館が閉めてしまうから、会を休止すると藤枝さんは言っていた。ただ、休止する本当の理由は、藤枝さんの健康状態だった。「すぐにいろいろなことを忘れてしまう」と藤枝さんは正直に話していた。写真では、埴谷雄高の後ろで、藤枝さんは旧友の本多秋五と話しているが、友人らとの会話で古い記憶は確かでも、最近のことになると危なげだった。ぼけてしまい何もかもわからなくなることを一番、恐れていた。

 藤枝さんはそれから、8年後に神奈川県の療養所で亡くなった。亡くなってから3年後に毎週1回、『浜名湖の恵み』という連載特集を担当、そのとき、再び、「近代文学」仲間の会と引佐町伊平地区のサワガニを紹介した。藤枝さんは「近代文学」の仲間たちと、伊平辺りまでドライブをして、たくさんのサワガニを捕まえ、空揚げにしてビールを飲んだことを随筆にした。藤枝さんが再び、10年後に訪れて、探してみたが、サワガニは見つからなかった。

『浜名湖の恵み』(静岡新聞社)から

 当時(1996年)、いまから25年前、少なくなったと言ってもサワガニは捕獲されて、東京の料亭などにたくさん送られていた。わたしの写真でも、いっぱいのサワガニが映っている。現在、若い人たちで、サワガニを食べたことがある人はほとんどいなくなった。『浜名湖の恵み』では、ドウマンガニ(大きな泥ガニ)、ズガニ(上海ガニの一種)も紹介したが、サワガニは食べておいしいわけではなく、鮮やかな甲羅の赤を彩りとして楽しむものだったから、すっかりと消えてなくなっても話題にならないようだ。

 多分、時間がたつとはそういうことで、周囲の自然も変わってしまっている。サワガニはまだ見ることはできても、食べる文化は忘れられるのも仕方ないことだ。

 わたしたちが承知している自然環境の常識が若い世代には全く分からない場合も増えている。逆に、情報機器の急激な進歩にわたしたちはついていけない。だから、新しい世代によることばの意味がわからない文学作品が次から次へと生まれている。果たして、いまの学生たちが藤枝さんたちの「近代文学」を読んで理解できるのだろうか。

日本近代文学館に資料を寄贈

 藤枝さんの書『冷やかに』と「近代文学の会」の写真などを公益財団法人日本近代文学館(東京・駒場)に寄贈した。渋谷駅から井の頭線で駒場東大前駅を降りて、住宅街に沿って5、6分歩くと、駒場公園があり、その一角に近代文学館があった。

 近代文学館はその名の通り、明治以来の「近代文学」を収蔵しているそうだ。パンフレットを読むと、「収集・整理・保存」を業務に挙げ、「展覧会、講座・講演会」を開催している。

小川国夫展図録

 2018年開催した没後10年「小川国夫展」の立派な図録をもらった。そう言えば、静岡市の会社に入社したばかりのとき、小川さんの謡曲講座に通っていた。歌舞伎と違って、謡曲はちゃんと筋立てがわかっていないと見ていても何が何だかわからない。謡曲の舞台よりも、小川さんの話はとてもわかりやすく楽しかった。最後に小川さんを取材したのは、富士山世界遺産特集でインタビューしたときだった。小川さんの『新富嶽百景』(岩波書店)を読んで、初めて、若山牧水「富士よゆるせ今宵は何の故もなう涙はてなし汝(なれ)を仰ぎて」を知った。酔っ払って、ただ富士山を仰ぎ見ているだけで泣けてくる牧水がそこにいて、それが日本人の心情だと小川さんは教えてくれた。富士山を見ていて、突然、泣けてくるのが、日本人であり、だから富士山は、世界遺産などという他人様の称号がなくても、日本の象徴であり、霊山なのだ。小川さんにとって、富士山とは親しみであり、おーい、お富士さんと呼び掛ける存在だとも話してくれた。

裾野・総在寺境内にある「遠雷」文学碑と作者の立松和平さん

 小川さんの写真を探していたら、1996年、裾野・総在寺が創建されたとき、お祝いに訪れた立松和平さんの写真が出てきた。小説「遠雷」の自筆抜粋が刻まれた石碑の前に立っている立松さんを撮影した。最後に立松さんに会ったのは、2004年6月で、立松さんが堂主を務めた北海道の知床毘沙門堂建立10周年を祝う法要だった。

 総在寺を建立した浦辺諦善さん(沼津・光長寺南之坊)、歌人の福島泰樹さんとの交流の中で、立松さんにもしばしば会う機会があったが、2010年、62歳で亡くなってしまった。法隆寺で修行中だったと浦辺さんから聞いたが、真偽のほどはわからない。

 なぜ、こんな話に飛んでしまったかと言えば、浦辺さんが熱心な法華経信者だった宮沢賢治の資料を収集していたからだ。総在寺境内には「遠雷」文学碑とともに「雨ニモマケズ」詩碑が建立されている。

 文学者の展覧会には人があまり入らないだろうが、宮沢賢治だけは違うようだ。「宮沢賢治展」には数多くの人が訪れる。

藤枝静男展を期待しています

 2005年4月に、浦辺さんが手に入れた丸善特製の原稿用紙に書かれた賢治の手紙とはがきを賢治全集の編纂に携わる大学教授2人が沼津の光長寺で鑑定した。当然、肉筆に間違いなかった。 

宮沢賢治の手紙(浦辺諦善所蔵)

 新発見の手紙は、盛岡中学の5年先輩から送られた手紙に対する賢治の返事だった。昭和3年(1928)に先輩は新興宗教の行者を気取って、賢治にいろいろアドバイスをしたようだ。手紙の最後には4行詩が書かれていた。『暑曇連日 稲熱続発 諸君激昂 迂生強奔』。やはり賢治を研究してきた大平宏龍・法華宗専門学校教授によると、「仏典などからの引用ではなく、賢治の創作の可能性が高い。毎日暑い日が続き、稲はイモチ病にかかり、農民らは怒り、(私は)農業指導のために走り回っている」と教えてくれた。

 もうひとつの新発見のはがきは東京の詩人大木実に宛てたもので、やはり、昭和3年に起きた三陸沖地震への見舞いに対する返礼で、病床にあった賢治は地震の惨状も伝えている。

 浦辺さんは高校を卒業すると、大阪で法華宗僧侶の修行に入るとともに、古書店で宮沢賢治の『グースコブドリの伝記』初版本を購入したのを皮切りに、『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』などの初版本を集め、自筆書簡まで4千点余もの資料を集めている。

 「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」。浦辺さんは賢治のことば通りの思想を広めるために「賢治文庫」を開設した。ただ、「賢治文庫」は一般に公開されていない。文学資料を公開して、多くの人に見てもらうのはなかなか大変なことなのだろう。

熊本市現代美術館の「谷川俊太郎」パンフレットから

 昨年6月から9月、熊本市現代美術館で「谷川俊太郎展」が開催、そのパンフレットが送られてきた。文学を展覧会として鑑賞させようという試みで、パンフレットを見る限りではおもしろく思えたが、コロナ禍の中、どれだけの人たちが鑑賞したのか、心配だった。文学を読むのではなく、楽しんで見せるのは非常に難しい。

 小川国夫展に続いて、いつの日か藤枝静男展が開催されるのを期待したい。ぜひ、日本近代文学館を訪れて、藤枝さんの『冷やかに』を鑑賞していただければ幸いである。

※タイトル写真は日本近代文学文学館事務局に寄贈した藤枝静男関係の資料など。電話03(3468)4181です。

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